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竹富島の祭祀組織は、六御嶽(六山の義で、竹富島の始祖神を祀る6つの御嶽のこと)を核としている。六御嶽の神々は、通常それぞれの御嶽に祀られているが、種子取祭の日にはそれぞれの御嶽からお出ましになり、世持御嶽に6人の神々が勢揃いすることになる。
世持御嶽は、火の神を祀る御嶽であるが、その日は六御嶽の神々が寄り集まる合同の祭祀場となり、そこでの祈願は、六御嶽の神司(神女)たちによって唱えられる。六御嶽の神々のなかで、種子取祭の中心になる神は、玻座間御嶽に祀られる根原金殿であるが、その理由については、種子取祭の由来伝承に語られている。
しかも、種子取祭の由来伝承は、竹富島の始祖神話に依拠して語られている。種子取祭の由来伝承を要約すると、次のようになる。
1.昔、竹富島には、根原金殿・新志花重成・幸本節瓦・久間原発金・他金殿・塩川殿という六人の神がいて、それぞれの村を治めていた。
2.そのなかで、玻座間村と仲筋村の神は、穀物の豊穣をめぐって対立していたが、玻座間の根原金殿が勝利を収めた。その結果、玻座間側は粟作・仲筋側は麦作を司ることになった。以後、玻座間と仲筋は、種子取祭の播種も同じ日に行うようになった。
3.また種子取の日について、幸本村では、幸本節瓦の定める「己丑」の日とし、東方にある花城村の他金殿、久間原村の久間原発金、波利若村の塩川殿は、「甲午」の日としていた。
4.しかし勢力が強く、徳の高かった玻座間村の根原金殿は、種子取祭を別々に行うのは経済的にも時間的にも損失であると考え、全員が同じ日に種子取祭を行おうと提案した。そしてその考えを実行するために、もっとも強く反対していた幸本節瓦に自分の妹を嫁がせた。
5.幸本節瓦の妻となった根原金殿の妹は、「兄の作る粟は、戊子の日に種子を蒔くので豊作であり、お神酒もよくできる」と夫を説得した。その理由として、彼女は「兄の根原金殿の粟がよく稔るのは、作物が土に根づく戊子の日に種子を蒔くからであり、貴方の粟が稔らないのは作物が土の中で失せる己丑の日に種子を蒔いているからである」と教えた。それを聞いた幸本節瓦は妻の言葉を聞き入れて、種子取祭を戊子の日に行うことにした。
6. よって、玻座間村の根原金殿、仲筋村の新志花重成、幸本村の幸本節瓦は、同じ「戊子」の日に種子取祭を行うことになった。
7.一方、東方の花城村の他金殿、久間原村の久間原発金、波利若村の塩川殿も、根原金殿の作物の出来具合があまりにも素晴らしいので、幸本節瓦と相諮って根原金殿の種子取祭を見習うことになった。
8.そこで右の4人の神たちは、新志花重成が同席する根原金殿のところヘアンガマ(覆面仮装すること)となって出向いた。そのときの双方のやり取りがユークイの「巻き歌」にうたわれている。
9.しかしながら幸本御嶽の氏子たちは、かって幸本節瓦が定めた己丑の日の種子取祭をずっと大事にしていた。彼らは長い間、「戊子の日」と「己丑の日」の2回の種子取祭を行っていたが、明治の末年頃からは戊子の日の種子取祭だけを行うようになった。
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