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祖母の教え −伝統芸能の継承− 内盛元佳
大好きな種子取祭 宇根あみ菜
初めての種子取祭 花城洋人
種子取祭の踊りと小道具 上間理江子
内盛元佳 竹富中2年生(平成9年当時)
「ああ、ちがう。ここは、もっと大きくまわらないと、とどかないよ。」
「もう一度、初めから。」
「♪まりや、たきどうん、すだていや、なかまぬ、まさかい♪」
これは、去年の種取祭の練習の一コマです。
種取祭の舞台に立つことが決定したとき、私は大勢の人が見ている大きな舞台で、上手に踊ることができるか、心配で心配でなりませんでした。
踊りを教える責任者は、私の祖母です。
毎日午後8時から9時までの間、「あいのた会館」 で、私たち子供は練習しました。
私が踊るのは、「真栄節(マサカイブシ)」 という踊りです。
「きっと一番簡単な踊りなんだ。」
「大丈夫、大丈夫。」 と、自分に言い聞かせて、少しでも安心しようと思いました。
しかし、踊りは難しく、なかなかおぼえられず、いつもは優しい祖母なのに、何回も、何回も、きつい言葉でしかられたりしました。くやしくて、泣き出したりしたこともありました。
「明日から、練習にこなくていいよ。」と、いわれはしないか、いわれる前に、「やめてしまおう。」 と、そんなことばかり考える私でした。
しかし、祖母がそんなへたくそな私に、一生懸命教えてくれているのに、「踊りをやめる。」 とは、言えませんでした。又、そんな私を両親は、励ましてくれました。
何日か過ぎ、少しずつですが、踊りと歌が、合うようになりました。
そうすると、「もっと頑張ろう」 という気持ちがわいてくるのでした。
「真栄節」 は、4人で踊るので、4人の呼吸が、ぴったり合わないといけません。
足や手の細かい動きとか、顔の向きなどです。
これが、また難しくて、なかなか思うように踊れないのです。
練習を初めて、1ケ月頃から、どうにか4人が、そろうようになったある日、
「うまくなったね。」
と、祖母がにこやかな顔で、初めてほめてくれました。
「やめなくてよかった。がんばってよかった。」 と心の底から思うと同時に、祖母への感謝の気持ちでいっぱいになりました。
私にとっては、つらい毎日の連続だったけれど、未熟な私たちに1ケ月余りも指導してくれた祖母は、精神的にも、体力的にも、もう大変だったらしく普段より、昼寝の時間が多くなつているようでした。
祖母は、もうすぐ70歳だというのに、踊りをするときの姿勢は、ピシッとしていて、若い人と変わりません。
私はいつも 「すごいなぁ」 と、思わずにはいられませんでした。それに、ずっと昔の踊りもおぼえています。
そんな祖母をみていると、島の踊りや、伝統芸能を継承していくのは、大変なことだとつくづく思いました。
しかし、祖母たちは、しっかりひきついできたのです。踊りの本があるわけではありません。体でおぼえ、次の世代へと縦承してきたのでした。
私は、この踊りの練習を通して、祖母や、島びとの、この思いをしっかり受け止めていきたいと、決心しました。
今年も種取祭がやってきます。一生懸命踊って、祭りを盛り上げたいと思っています。
そうすることが、私たちから次の世代へと、島の祭り、芸能を、継承していくことになると思うからです。
(『星砂の島』第2号より)
宇根あみ菜 竹富小学校5年(平成11年当時)
「だめだめ、もう一回やり直し。」
おどりをおしえるみちえおばさんの声が、かいかんじゅうにひびき、私はビックリしました。
今日は、種子取祭の練習がある日です。私は、中学生のお姉さんたちがおどっている様子を見ようと、〈あいのたかいかん〉へ出かけました。
みんな上手におどっていました。でも、みちえおばさんは、少しのミスでも見のがさないとばかりに、注意していました。
私は、「おどりは、むずかしいな。」と思いました。そのとき、みちえおばさんが、
「あみ菜も練習してみたら。」
「えっ、あみ菜がー。あみ菜は見ているだけでいいよー。」
「なんで。あみ菜も来年は六年生なんだから、種子取祭でおどるんだよ。」と言いました。
私は、おばさんの言葉を聞いて、ビックリしました。私は、来年もさ来年も、おどりを見学するだけでいいと思っていたからです。
というのは、私はおどりがそれほど好きではないからです。おどることがきらいではなく、おどりの練習で、遊ぶ時間やテレビを見る時間、自由に過ごせる時間がなくなってしまうからです。ですから、正直言って、「おどりはしたくない。」と思っていました。
でも、去年、学校で種子取祭の歴史を勉強したとき、種子取祭は600年の歴史があるということを知りました。私は、「すごいなあ、種子取祭って、こんなに歴史があったんだ。六百年もの間、竹富の人はおどりやうたを守りつづけてきたんだあ。」とおどろきました。
私は、来年おどるかもしれない。今年の種子取祭は、ぶたいのおどりをしっかりみようと、ぶたいに近いところにすわりました。
まずは、かんつかさをむかえて、うたをうたって、庭のげいのうのはじまりです。庭のげいのうがおわると、次は、ぶたいのげいのうのはじまりです。ぶたいのげいのうでは、お姉ちゃんやお母さん、お父さん、弟、友だちと、知っている入がいっぱい出てきて、いっまで見ても、あきませんでした。みんな、練習のときよりも、いきいきしているようです。私は、おどっている人たちの様子を見て、「みんなすごいなあ。私も、おどれるようになるぞー。」と思いました。
(『星砂の島』第4号より)
花城洋人 竹富小学校6年(平成11年当時)
「だめだ、だめだ。もう一回やり直し。」
よしのぶおじさんのきびしい声が耳にひびいてきました。
僕は、10月11日の種子取祭で、サルの踊りをすることになりました。毎日練習していますが、なかなかうまくなりません。種子取祭の日まで、あとわずかなのに、ほとんど上達しないのです。
僕はこのままではダメだと思い、家で何度も何度もビデオを見て練習しました。練習の成果が上がったのか、次の日の練習では、注意されることなく、スラスラと進んでいきました。おじさんたちも、
「洋人、上手になったではないか。家で練習してきているのがよくわかったよ。でも、まだまだ直すところもあるよ。これからもがんばれよ。」とほめられ、うれしくなりました。
手踊りの練習がうまくいったので、今度は、なぎなたの踊りを練習することになりました。なぎなたの踊りは、みるからにむつかしそうです。僕は、「ちゃんとできるかなあ」と、急に不安になりました。
思ったとおり、なぎなたの踊りはとてもむつかしく、僕は、「もうおどりなんかやめようかなあ。」と思うばかりでした。
でも、ひきうけた以上がんばらないとダメだ。「家でもっと練習してやるぞー。」と思い直しました。
今日は、とうとう種子取祭の本番です。「うまくできるかなあ。」と、胸がドキドキして、たまりませんでした。どんどん時間が過ぎて、いよいよ僕の出番がきました。
「がんばるぞー。」と決心して、舞台に出ました。お客さんがたくさんいて、とてもきんちょうしました。
手踊りが終わり、次はいよいよなぎなたの踊りです。歌に合わせて踊るのがせいいっぱいでした。しかし、踊り終わったあとのお客さんのはく手を聞いて、ホッとしました。「やっと終わったんだー。」と叫びたくなりました。
種子取祭が終わった今、僕は、来年もがんばるぞと、ファイトがわいてきました。
(『星砂の島』第4号より)
上間理江子 竹富中学生(平成8年当時)
第12回伝統的工芸品月間作文コンクール最優秀賞受賞作
島全体が国立公園に指定され、集落は「国の重要伝統的建造物群保存地区」になっているのが、私の住んでいる竹富島です。周囲約9キロ、人口は300人にも満たない小さな島です。
しかし、この小さな島も種子取祭にはなんと1200人近くにふくれあがります。
私は去年の種子取祭の庭の芸能で、ジッチユを踊りました。
この踊りは、芭蕉布を着て、ミンサー帯をしめ、右手にはクバ笠を持ち、カンプーを結い、ジィーファーを差してアダン葉草履を履いて踊ります。
母は、それに使う小道具や衣装の準備をしながら、踊りや小道具の説明をしてくれるのでした。今では、この小道具の作り手がいなくなり、一つの踊りをするのにも、毎年毎年いろいろ大変だというのです。
私は、これまで準備された小道具を無造作に使い、何の心配もなく踊っていました。正直言って、そのようなことになっているとは思ってもみませんでした。
私は夏休みに、これら小道具はどのような状態になつているのか調べてみようと思いました。
クバ笠は以前はほとんどの家庭で製作し、日常生活の中で使っていたそうですが、今では作っている家庭は一軒もありません。現在、種子取祭の踊りに使うクバ笠は、石垣市の白保の方に頼んで作ってもらつているそうです。
アダン葉草履もクバ笠と同じで、島ではまったく作られていません。
また、竹富島で長いこと織られていたミンサーも、年々織り手が減ってきているそうです。ミンサー帯は、亡くなった私の祖母がいつも織っていたので、小さいころから一番親しみのある織物です。
島で、ミンサー織りをしている人は、ほとんどがおばあちやんたちで、若い織り手はほんの2、3人です。
このままだと、10年、20年後には、島でミンサー織りを織る後継者はいなくなってしまい、クバ笠やアダン葉草履のょうになってしまうのではないかと心配になったので、ミンサー帯を織っている民芸館へ行ってみました。
一本一本の糸を心をこめて織るわけですが、帯を織り上げるには、約2〜3カ月かかるそうです。
糸くり機で、糸まきが終わると、ミンサー独特の、五・四 (いつよ)、五・四(いつよ) の模様である 「いつの世までも幸せに」 の染めの準備をします。
昔は芭蕉の皮でしばっていたようですが、現在はビニールでしばって染めています。そのあと、のりつけをし、糸をのばしたり、その他いろいろな工程の後、織機にのせ、織りはじめます。気の遠くなるような作業です。
私は、これまで種子取祭を守ってゆけば、島の織物や文化などみんなを守ることになると思っていました。竹富島は、伝統的工芸品や伝統文化のあふれた島だと安心していましたが、調べてみて、そうではないことに気づきました。
私は、先日 「天に響(とよ)め、サンシン (三味線) 三千」というコンサートを聞きに行く機会がありました。
お年寄りから小さな子供までが、伝統のサンシン (三味線) を心を一つにしてひいている姿を見て、これからの私たちの方向を示しているように思えました。
島で生まれた伝統工蓑品は、先人たちの知恵から生まれたものです。私たち若者は継承してゆく努力をしなくてはいけないと思いました。
種子取祭の踊りの衣装や小道具は、島の人々が作ったもので踊れるように頑張らなくてはいけないと、「サンシンサンゼン (三味線三千)」 の音につつまれながら考えるのでした。
(『星砂の島』創刊号より)
子供たちの種子取祭 (このページ)