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竹富島喜宝院蒐集館館長 上勢頭芳徳
私が住んでいる美しい竹富島は、日本の最南端の竹富町の中の1つで、北緯24度、東経124度に位置する。周囲9.2キロ、面積5.4平方キロ、世帯数132戸、人口286人(男139人・女147人、昨年6人増加1。民宿旅館11軒、土産品店6軒、食堂喫茶店6軒、牛229頭、水牛17頭、山羊40頭、鶏118羽、犬32匹、猫多数、白動車102台(昨年2台減)、水牛車10台、船18艘、自転車147台、(レンタル293台)バイク90台(レンタル33台)などとなっている。
芸能の盛んな島で、最大の祭りである種子取祭は、9日間にわたって行われるが、7日目の朝6時から8日目の夕方6時まで、36時間ぶっとうしで神事、世乞い・それに約80点もの芸能を奉納する。
沖縄は健康長寿県といわれるが、竹富島は有数の長寿地区といえる。昨年、1年間に5人の方が亡くなられたが、死亡者の最年少は86歳、平均年齢が93歳であった。ちなみに全人口286人中、65歳以上は96人である。しかも、120世帯のうち、老人だけの世帯が33世帯、お年寄り皆元気というのがすごい。
サン・テグジュベリの「星の王子様」の中に、「おとなというものは、数字をならべてわかったつもりになるのです」というような言葉があるが、私も数字を並べ立てただけなので、これで本当の竹富島のことがわかってもらえたかどうか、心許ない。
「心で見なくちゃ、本当のことは見えないんだよ」ということであろうが、一見無味乾燥に見える数字の裏に、島の様子を思い描いていただければ幸いである。
「琉球新報」1999年1月13日掲載
JTA(日本トランスオーシャン航空)の機内誌「コーラルウェイ」の若水号は、「島の暮らし」の特集。竹富島も8ぺージにわたって取り上げてくれた。伝統を守る島の暮らしということで、やはりキーワードは「うつぐみ」。
道一つ隔てた御嶽のこんもりとした深い杜をバックに全校生徒31人の写真もさわやかだ。中学生へのインタビューでも、島の好きなところは海、砂の逆、学校、種子取祭、島全体が一つになっているという答え。いまどき、学校が好きという中学生が都市部でどれほどいるだろうか。
ルポライターは、287分の1の快い重みといっているが、自分の存在感を認識できる誇りが、この島を好きと言わせているのだろう。島を守ってきた先輩たちの思いは、次の世代にも伝わっている。
こんな島に昨年6人の赤ちゃんが誕生した。復帰っ子(本土復帰の年に生まれた子)の9人以来、26年ぶりの快挙だった。内盛美咲ちゃん、内盛実奈ちゃん、大浜煕人君、真喜志祐花ちゃん、吉沢乃愛ちゃん、前本とわちゃんの六人。女の子が5人というのもいい。すべて第一子なので次々の誕生を期待したい。
育てるのはみんなで育てるから、産めるものはどんどん産め、とけしかけられている。子供を安心して産める地域はいい地域だ。安心・安全・平和というのが地域の原点のはずだから。
このニュースは、「コーラルウェイ」だけではもったいないと、地元の新聞に送ったら正月にほぼ一面を使って大きく扱ってくれた。新聞社だって、汚職だの、公的資金だの、交通事故だのばかりでなく、明るいニュースを待っているのだ。
「琉球新報」1999年1月21日掲載
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今でこそ、アウジ、アッパ(爺さん、婆さん)らも「まちなみ」と言ってくれるが、当初のころは「町並みツティ、ノーリヤー」(町並みって、何)という調子だった。
白分たちが当たり前に継承してきたことが、今さらなんでそんなに大騒ぎするのか、理解できなかったようだ。以前は、離島に限らず石垣島でも赤瓦の家、さんご石灰岩の石垣が続いていたのに、過疎化という言葉に脅かされ、近代化という耳当たりのいい言葉に踊らされて、建物も集落もすっかり変わってしまった。集落全体として残しているのは、竹富島だけであろう。人それぞれに多様な価値観があるだろうが、経済的価値と愛着的価値とに分けて考えてみる。
暑い沖縄では家を南向きに、開口部を広くとって風を取り入れて暑さをしのぐ。石垣とフクギなどの屋敷林を巡らせて台風対策とする。というような風土に根ざした建築はまさに文化なのだから、それを誇りとして保存継承するというのは愛着的価値といえよう。
愛着をもって家を大事にしている地域を文化庁は「重要伝統的建造物群保存地区」として選定し、家を建て替えてくれる。それが図らずも観光資源となり、観光客の増大となってUターンを促進し、赤ちゃんも生まれ、人口の増加につながった。文化は経済を救い、心を救うということか。味なことをやってくれるお役所もあるものだ。
司馬遼太郎さんは「この国の行く末はどうなるのだろう」と心配しておられたが、バブルが崩壊してやっと日が覚めたのか今、文化・歴史・環境・伝統ということが追い風になっている。強風でなくてもいいから、底流にはいつも吹き続けてほしい。
「琉球新報」1999年2月10日掲載
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今日は24日。竹富島のキーワードは、「24」なので、また数字を並べてみる。竹富島は北緯24度、東経124度に位置している。年間平均気温は23.6度なので、四捨五入して24度。年間平均雨量も約2400ミリ。
こういった自然条件は石垣島も同じだが、竹富島にはもっと24がある。最高標高24メートル(国士地理院の5万分の1地図では20.5メートルとなっているが、その上に展望台が造られているので24メートルといっている)。
竹富島は西表国立公園の範囲内にすっぽり含まれている。これが復帰の日に24番目の国立公園となった。
竹富小中学校は7年前に創立100周年を迎えたが、その年の全校生徒が9学年で24人だった(その後増えつづけて今年は31人になっている)。
1987年には、島全体が24番目の重要伝統的建造物群保存地区(いわゆる町並み)に選定された。実はこの年に2ヵ所が同時選定で、国は北のほうから番号をつけるので竹富島は25番目になるところだった。ほぼ決定の情報が入り喜んだが、わずか1番違いではきっと後悔すると、もう1ヵ所の信州東部町の教育委員会を訪ね教育長と「談合」した。法的な根拠はないのだからと笑いながら譲ってもらって、めでたく24番目を名乗ることができた。
「24°NL」という24度の泡盛を送ったのはいうまでもない。
たかが数字にこだわっているようだが、まちづくりはこだわりだという人もいる。だから、町並み保存会の定例会も毎月24日だし、FAXを入れるときも、もしかと思ってNTTに間い合わせたら、あったんですよこれが。09808−5−2424。実害がなくてロマンがあれば、こだわりも楽しい。
「琉球新報」1999年2月24日掲載
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冬から春にかけてこの季節、1年間で最も観光客の多い時期だ。不況だといいながら前年よりも増えているようだ。今年は雨もほとんどなく暖かい日が続いているが、例年だと天候は不安定な時期だ。
だから冬場の観光客が増えているのは、青い海と青い空のおかげだけではない。関係者の誘客資源の1つが竹富島の町並み景観というのは八重山観光の常識となっている(はずだ)。
赤瓦ぶきの家並み、珊瑚石灰岩の石垣、白い砂の道など虚飾のない単純さ。生活の必然の中で繰り返し繰り返されて浮かび出たものが、岡本太郎さんが「沖縄文化論」の中でいわれる「なにもないこと」の眩暈、素晴らしさということに通じるのだろう。
それにしても、世の中あまりにも過剰なのではないだろうか。足し算ばかりで虚飾で覆い、複雑にしてしまって本質を見失うと、進歩とは発展とは何だろうと思えてくる。先日、熊本での景観フォーラムで竹富島の事例報告をしたが、島に来たことのある人からも、本当の豊かさを感じたといわれた。これからは引き算の時代だと。
そんな中で先月木曾妻籠宿からの第5次交流団が、今月2日にはあの由布院観光協会から20人が来島。夕陽の美しいコンドイ浜に、竹富町の観光関係者50人も加わってバーベキューパーティー。日が暮れると西空には水星、金星、木星、土星の惑星直列。40分後には東の空に満月が昇ってくるという、それはすばらしいシチュェーションの中での交流会だった。
妻籠、由布院というまちづくりの大先進地から竹富にこそ学ぶものがあるといわれたことは、うれしいことだが改めてかみしめてみる必要がある。好天を招き寄せるのも地元の熱意の現れ、とは中谷健太郎会長の言葉だった。
(沖縄タイムス1999年3月10日)
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竹富公民館は復帰前の1970年に、高等弁務官資金で建設されている。住民は1人当たり1斗缶2杯のバラスの提供が義務づけられた。
そのバラスも屋敷の石垣を崩すのではなく、畑のあぜから運んで細かく砕きセメント、砂、水を加えてスコップで練り、バケツリレーでスラブを打ったという。
お茶の当番は2軒ずつで持ち回り。休憩時問には西塘御嶽で話がはずんで、そんなときにユンタも昔話も覚えたものだと年配者たちは懐かしそうに話す。牧歌的な良い面だけでなく、当時だっていろいろ問題はあったはずだ。
それでも最近のあふれる観光客の応対に振り回されて、島がぎくしゃくしかねない状況になってくると、まだしも30年前が豊かだったのではないだろうか。そんな光景を思い浮かべてみると、体験してなくてもこれが本来の結(ユイ)とか「うつぐみ」とかいうものだろうかと、うらやましくさえなってくる。
それほどまでして建設された、まさに住民の汗と愛着のこもった公民館も寄る年波には勝てず老朽化は進行するばかり。国庫補助のメドもたたない。かといって手をこまねいてもおれず、いつの日かのためにと毎年の生まれ年の人たちは、1万円ずつ拠出して積み立てを始めて10年になる。
大企業にねだることもせず、いつかよい日も来るだろうと願っていたのが文化庁を動かした。あの一番予算をもたない省庁である文化庁が1億2千万円の予算をつけて「まちなみセンター」を建設することになった。取り壊す際には30年間の感謝を込めて、お別れ会をしなければなるまい。
それにしても媚びず、動ぜず、祖先からの文化を誇りとしてきた竹富島の一貫性が国をも動かした。県、町をはじめ関係各位に深謝。
(沖縄タイムス1999年3月24日)
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平成10年度の町並み保存整備事業の修復工事は、我が家の順番にあたった。中村家や旧宮良殿内には及びもつかないが、沖縄の普通の規模の木造瓦葺きの家だ。
棟木には「天官賜福紫微鑾駕」の文字と、大正11年8月の棟上げ日と、棟梁と家主の名前が墨書されている。
数百回の台風と何回かの地震にも耐え、シロアリも寄せつけず77年を経てしっかりと立っている。38本の柱のうち10本を取り替えたが、梁、桁はそのまま使うことができた。りっぱなものだ。
二番座にかけてある絵でしか知らない曾祖父が建ててくれた家は、たぶん私の孫の代までは十分住めるだろう。
子孫のことを思って家を建てるか、自分一代でいわば使い捨ての家を造るかの違いだろうか。価値観は多様化しているのだそうだから、どちらがいいと一概にいえないだろうが。
先日、北九州市で長崎街道まちなみフォーラムが開催された。基調講演は鈴木健二さん。あの軽妙な語り口で、父母−祖父母−曾祖父母−高祖−祖先と続くこの流れを分からずに、子孫へとまちづくりを伝えたいとは片腹痛い、と言われてしまった。
我が家の屋根裏の梁に残る材木伐り出し時の縄の結び溝や、親戚近所からの到来帳の品々に、曾祖父母たちの家造りにかける執念を見る思いがする。家の修復改築で祖先との系とか繋がりというものに改めて気づかされた次第。
伝統文化の継承という島づくりの意識は子供たちに伝えていこう。建造物の修復、修景には公的資金で通年の仕事がある。不足しているのは大工さんの後継者。先日は沖縄職業能力開発短大の学生8人が、島の集落と家の造りの視察研修にやってきた。このうち1人でも弟子入りする子はいないかしらん。
(沖縄タイムス1999年4月7日)
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過日、宮古池間島の友人から電話があった。八重干瀬(ヤビジ)でサニツしに来ないか、という。
1度は行ってみたいと思ってはいたが、何百人ものツアー客とフェリーで乗りつけることにはためらっていたが、漁協の船だというので、喜んで行くことにした。
それにもう一つ、池間島には関心があった。橋が開通してから7年目。架橋は夢の実現、万々歳だったのだろうかと。
八重山でも石垣島と竹富町の島々を結ぶという話をいつか誰かが言ったようだ。時々亡霊のように現れてくる。地元の人の話を聞いておきたいこともあって、橋を渡っての池間島行きとなった。
橋の欄干には開通時の、池間中学校生の俳句が刻まれていたりするのだが、それよりも連れて行かれた所が池間公民館。『県営公園絶対反対住民総決起大会』という文字にはいささかビビった。
これまで県や市町村の、行政側からのまちづくりフォーラム等には何度も事例報告をしているが、住民大会には初めて。陽に焼けて、しわを刻んだおじい、おばあがマイクを握り共通語を交えてとつとつと話している姿に、十数年前の竹富島の自分たちをダブらせてみたが、これほどではなかった。
土地をとられたくない。ここで畑を耕して、漁をして生きたい。都会ほどの経済的裕福さはなくとも、気心の知れた共同体の中で生きる安心が第一。
条件闘争ではない、思いのたけをこめた熱意は人を動かすものだ。だが私はやっと竹富島での経過と現状を話すことしかできなかった。賛成か否かは地域の人が決めることだ。
親がそれほどまでして守ろうとした島の価値は、いずれ子も孫も知る時が来る。昔は良かったのだがなどという過去形の話ではなく・・・。
(沖縄タイムス1999年4月21日)
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八重山への修学旅行が増え続けている。竹富島へも数校が来島しているが、以前は港からコンドイの浜までぞろぞろ往復して帰るだけだった。
せっかくこんな所まできていながらこれで修学旅行といえるのだろうかと、下見に来られた先生や旅行社に働きかけている。最近はサイクリングや水牛車、資料館でのレクチャーと充実してきた。これまでも全国町並みゼミの開催(286人で2泊3日)、日本民芸協会夏期学校(90人で2泊3日)を2回開催。日出克のデビューコンサートで1800人など質の高いノウハウを持つている。
今年は京都の有名私立高校の先生たちが下見に来たときに売り込みが成功して3泊とも竹富島でということになった。公平に平等に、というのが島の「うつぐみ」の原則なので、6軒の民宿に平均16人ずつの分宿。生徒たちにもかえって好評だった。
それにしても現今の高校生は髪も茶色、金色、青いのまでいたりファッション誌から抜け出したような娘もいた。きれいにマニキュアをした手で、海岸のゴミ拾いをしてくれるのだからいとおしい。
清掃の後はコンドイの浜でバーベキューパーティー。生徒たちも喜んでくれたが、自分たちも自慢できてうれしかった。翌日には西表島ヘエコツアー、次の日は石垣島ヘグループごとの自主研修と、竹富島を拠点にして4日間を過ごして帰った。
修学旅行も進化しているのだが、14日には北海道のホテル火事で修学旅行生の死傷者が出た。
そういえば世界遺産の富山県相倉では、修学旅行を断っているそうだ。入域客数を増やすことだけを目標にするのでなく、ゲストも質の高い観光、それが可能な地域づくりが必要でしょうね。
(沖縄タイムス1999年5月19日)
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先月22日の新聞は久しぶりにいいニュースばかりだった。新ガイドライン法案なんてキナ臭い文字は、この日は1行もなかった。
最近は沖尚優勝、サミット決定と大きな活字にはなれてきたが、この日の1面は、「琉球王国の城遺跡群と拝所が世界遺産に推薦」「与那嶺貞さんが人問国宝に」と、またまたうれしいニュースだった。
世界遺産に推薦される中の1つには、竹富島出身の西塘様の手になる園比屋武御嶽も入っている。世界遺産となるとバッファゾーン(緩衝地帯)が必要なのに、周辺の無法な隈雑ぶりから、はたしてできるのだろうかと思っていた。
それにしても、県内だけでも世界遺産に名前が挙がっているのは、やんばる、八重干瀬、白保、西表と数多い。発端は自然を守りたい、地域を美しく残したいというのだが、いつの間にか「観光」の真の意昧も分からない人たちが安易に観光による地域振興なんて言い出して薄っぺらなものに落としめてしまう。どうしてこうも経済の活性化、観光振興ばかりに目がいってしまうのだろうか。
竹富島は早くから、多くの人たちにその可能性を指摘されてきた。だから1987年に「町並み保存地区」に選定されるときに住民の要望で、陸地はおろか海上のリーフ部分までを「歴史的景観保存地区」として指定した。つまりバッファゾーンは既に確保している。
こんな時世だからよそでは守ることも難しくなっているが、竹富島は島だから守ることができる。橋が架かって車社会に組み込まれたら、安心、安全、平和という島づくりの基本が脅かされて共同体の崩壊につながりかねない。
それにしても竹富町は世界遺産の可能性のある地域を2つも持っていながら例によって反応なし。
(沖縄タイムス1999年6月1日)
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