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北の恋人より 北海道釧路市 青地久恵
鍵のない部屋 北海道滝川市 吉住晴美
北海道釧路市 青地久恵
この頃はよくテレビで竹富島が紹介されるようになりました。3月21日にも、NHKの新日本探訪で「うつぐみの島に生きる」という番組が放映され、遅い時間帯にもかかわらず、最後まで夢中で見てしまいました。こちらはまだ雪に埋もれているというのに、南の島は夏のたたずまいです。
5月の連休には出かける予定で、心待ちにしています。真っ青な空へと導かれるように続く白い砂の道、その両脇に咲きこぼれるハイビスカスやブーゲンビリアの花々。サラサラと足の底から全身に染みわたってくるような小波の響き、「よく来たね」と声をかけてくれる顔見知りの人達。竹富島を訪ねてからもう5年日を迎えました、種子取祭、マンダラー祝など長い歴史に根ざした行事にも触れさせていただき、そこで出会った人達との3000キロを隔てた北と南の交流は続いています。
昨年8月下旬、釧路市は大雨でところどころ洪水に見舞われましたが、その様子をテレビの全国放送で見た島の友人、大山貞雑さんが、心配して電話を下さったのです。なんとありがたいことでしょう。
大山さんは私のことを「北の恋人」と嬉しいことを言ってくれます。来年は97歳のマンダラー祝を迎えるそうです。「北の恋人」はおめかしして、おとぎ話のようなお祝いに馳せ参じましょう。長寿を祝い、私達の出会いに乾杯するために。そして風ぐるまを持って、鉢巻きを締めて、水牛車の後をついて回りましよう。
竹富島から帰って来る度に、旅日記を書き続けてきました。日常のすべてを忘れ、ペンを走らせる夜の時間は、心はもう竹富島で遊んでいるのです。1998年秋、とうとう一冊の本になりました。「南風(パイカジ)に吹かれて」というタイトルですが、萎えた心にいつも潤いを与えてくれた八重山への讃歌です。
この本の出版を機に、竹富島出身の方が北海道にもいらっしゃることを知り、遠い八重山の島が身近に感じられるようになりました。また東京や沖縄本島に在住の方々とも手紙や電話で近況を伝え合い、楽しい交流をもつことができ、私の心をなんと豊かに幸せにしてくれたことでしょう。
一つだけ気になることがありました。ひすい色の海も、赤瓦屋根の家も、珊瑚礁の垣根も、ゴミ一つない町並みも、しっかりと島を守っている人達がいて、美しく保たれているのですが、1996年に訪ねた時には、港から集落へ続く道が舗装され、観光地風になっていたのです。その時はがっかりしました。大好きだった道が消えてしまったのですから。でも私は旅人、この道が島の人達の生活を支える為に必要ならばやむをえない事なのだと、白分を納得させました。しかし他に方法はなかったのかといつまでも心に残っていたのです。
最近、ナプコティ発行の機関誌「星砂の島」を読む機会に恵まれましたが、狩俣恵一氏や金城正廣氏の文章には考えさせられました。
ふる里の島を離れて、なお島の環境保全に力を尽くそうとする狩俣氏、島民の生活を第一に考えよと訴える金城氏。そして「私ははこう思います」とはっきり言えないもどかしさ。ただ島外の者は意見を述べる筋合いではないという言葉には寂しいものを感じます。島の人達は「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」という約束ごとを作って島を守っています。島外の人達も、この島の心に学び、島を守る為に知恵を出しあえたらいいなと思うのですが。もちろん、金城氏の言葉は島を愛するが故に発せられたものなのでしょう。そのお気持ちは痛いほど伝わってきます。
また、町並保存事業の経費一覧を見て、国から重要伝統的建造物群保存地区など4種の指定を受けているにもかかわらず、国の補助金は少なく、自己負担が多いという印象を持ちました。補助金にあぐらをかく必要もありませんが、この小さな島で自己負担が多ければ、国の指定を受けていても、守りきれないのではと心配にもなります。竹富島には日本の財産が4種類もあるのですから、国はもっと供出しても良いのではないでしょうか。
ナプコティの会員になり、「星砂の島」を読んで、今まで何度も通いながら、疑問に思っていたことが、一つ一つ説き明かされ、また島が抱えている問題を考えてみる機会も与えられました。竹富島の心に少しでも添うことができたらと思っています。今日も竹富島の海はキラキラと輝いていることでしょう。再会を楽しみに!
(『星砂の島』第4号より)
北海道滝川市 吉住晴美
10月、再び港に降りた。司馬遼太郎が「カレー皿を伏せたような島」と記した竹富島は、激しく起伏するところのない、やわらかな表情で私たちを迎えてくれた。
昨年、「海道を行く〜沖縄先島への道」をかばんに入れて初めて訪ねた竹富島。幾度も続み返した「石垣竹富島」の章を高速船の中で反留し、あれこれ思い描いたあこがれの島へと降り立った。しかし、想いとは裏腹に数時間を過ごしただけで、石垣市内のホテルに戻ってしまった。旅人としては別段珍しくない竹富での時間。海も見た。水牛車にも乗った。
観光案内にある名所はすべて自転車でまわった・・・。でも・・・なぜか物足りなさがつのった。風のにおいも海の音も、道に敷き詰められた白砂も、ただ先を急ぐ旅人には観光パンフレットの写真をめくっているにすぎなかった。かばんに入れた本が肩に重くくいこんだ。司馬遼太郎の語る竹富島に会いたい・・・。
そして、今年。どうしても足りないものを埋めたくての再訪であった。港には3晩の宿となる小浜荘の栄子さんが待っていた。小柄で少女のような笑顔の女性である。
竹富独特の家屋。通された部屋には蛍光灯とのりのきいた寝具、扇風機1台、そして旅人が置いていったであろうたくさんの本。そのこざっぱりとした部屋に鍵はなかった。「竹富島に悪い人なんかいないんだよ」昨年、借りた自転車に鍵がついていないことを不安がっていた私たちに、貸自転車屋のおばさんが自慢気に話していたことが思い出された。
3日間、昨年と同じように南風に押されながら自転車を走らせ、海をながめた。空との境を溶かした海、陽の傾きとともに表情を変える白砂の道、あでやかな花の香りをほのかに合んだ風。会いたかった竹富の素顔がペダルを踏むごとに目の前に広がった。そして、何よりも竹富に暮らす人々との出会いの中に、探していた空白が何であるかを見つけることができた。
道をたずねるために立ち寄った土産屋。土産屋の大底勝子さんは、「あと1時間後にいらっしゃい。おいしい揚げ菓子をご馳走するから」と笑顔で言ってくれた。約束の時間になった。「ずうずうしいかな?」と、遠慮しがちに店先をのぞく私たちを待っていたのは、紅芋を混ぜた揚げたての菓子としぼりたてのパイナップルジュースであった。それが商品であることも忘れ、勧められるままおかわりまでしてしまった。
「お金、払います!」。当たり前の申し出は、「おいしかった? それでいいよ」と、豪快に笑い飛ばされてしまった。翌日、釣りに行きたいと無理をいって小浜荘から釣り竿を借りて浜に出かけた。
「釣りですか?」。日焼けした笑顔に白い歯が印象的な青年が声をかけてきた。「餌を手に入れたいのですが・・・」。大物を釣り上げようと意気揚々とした話ぶりに反して、あまりにも準備の悪い私たちに、「ここには、そういうお店はありませんし、その針で釣りは無理でしょう」と、気の毒そうな忠告。
太公望気分が一気にしぼみ、落した肩を見かねて、「ぼくの釣り竿、貸しましょうか?」。彼は、店番の最中。とてもそんな暇があるとは思えない。しかし、今にも釣り竿を取りに帰ってしまいそうな雰囲気に、「大丈夫、なんとかします」。彼の気持ちと「ヤドカリを餌にしてみたら?」のアドバイスだけを素直にいただいた。
港まで自転車を飛ばし、言われたとおりヤドカリを餌にして垂れた釣り糸に、海の色で染めたような小さな魚がかかった。海と空と私たちの歓声の間に、マリンブルーの雫が舞った。おかずにもならない小さな獲物であるが、私たちは満足して帰った。
近くのおじさんが、小浜荘の栄子さんヘバナナを届けにきた。自宅前でもいだばかりのものだという。ほどよい甘昧と酸昧は、鼻腔をくすぐり人工果実に慣れた口の中を贅沢にさせてくれた。語彙のまずしい私たちが、「おいしい」の言葉ばかりを繰り返すのを聞いて、「明日、うちにいらっしゃい。あなたたち用にバナナの木を1本用意しておくから」。島を離れる2時間前であった。「私たちのバナナの木に会いたいね」真剣に帰りを遅らせようかと相談した。
観光も「お金」が介在する産業である。商売人としての笑顔に鍵をかけ、「もてなし」という衣を幾重にも着た観光地は数え切れないほどある。時に、その笑顔の陰に見てはいけない素顔を垣間みる。「商売だから」と思うことが、無難に旅をする術であることも身についた。しかし、少なくとも私が出会った竹富の皆さんは違った。もちろん、彼らも観光を生業とする人達に変わりはない。
違っていたのは、ただひとつ。鍵のない笑顔がそこにはあった。小浜荘の栄子さん、土産屋の勝子さん。そして浜の青年に、バナナのおじさん・・・。だれもが会ったばかりの私たちを旧知のように迎え入れてくれた。まるで、遠方から遊びにきた親戚のように・・・。
久しぶりに行った親戚の家のようだった。その日溜りの中で、他愛のないはなしに夢中になっている私がそこにはいた。人の好意の裏側には何かあるに違いない・・・。そう考えるようになっていた自分を恥じずにはいられなかった。
竹富では、掛け値なしのたくさんの温かい気持ちを両手に持ちきれないほどいただいた。おかげで、自分の心に埋めたかったものが何かを知ることができた。ほのぼのとした軽い気持ちとともに、帰りのかばんも軽くなった。
このような気持ちは、旅人の一時の感傷なのかもしれない。しかし、感傷に浸れる場所が私にあったことを幸せに思う。コンピューターを介しての形のない数多の情報に溺れる日常。相手の本心を探りきれないことへのあせりとストレス。そして、私は30代半ばになった。このままで本当にいいのかという漠然とした不安・・・。自らを乾燥させてしまいそうだった私の心は、鍵を持たない島での部屋と人によって柔らかさを取り戻し、飽くことなく眺めたあの海のように、今も静かに波を打ち続けている。
帰りの船が港を離れる時間になった。着いたときと同じ場所で小浜荘の栄子さんが見送ってくれた。知り合いと出くわした栄子さんは、話に夢中になりながらも、振る手を止めることはなかった。「おばさん、こっち見てないよ!」、次第に小さくなるその手が見えなくなるまで、なぜだか笑いが止まらなかった。
笑いすぎたのか、波しぶきなのか。顔のしずくをぬぐった途端、あんなにはっきりしていた島の姿がぼんやりと滲んで見えた。
(『星砂の島』第5号より)
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