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ふるさと竹富の素顔

石垣市 大山正夫

島の風景

港の移り変わり

憧れの台湾出稼ぎ

島の風景

 多感な少年の頃、私たちはよくクースク(物見台)へ行った。前方には、標高526メートルの於茂登の山が望見された。
 石垣島と竹富島の中間の青い海には、大阪商船の湖南丸と湖北丸が黒い煙をはきながら台湾と沖縄を往来していた。北の浜辺へ通じるミシャシ道は、風姿豊かな松とデイゴの並木が延々と続き、素晴らしい風情を見せていた。私たちはさわやかな松風の音を聞きながら、山羊の草刈りのため、この道を歩いた。

 ♪ミシャシ道を通るとき
 ♪石があったら蹴り飛ばす
 ♪あらおかしいかみ主ぬパン
   (カミシューさんの足)

 と、ユーモラスに歌って浜に下りた。
 海上には、千古の伝説をはらむような東のソイ(岩石)と西のソイ(岩石)が拮抗して、力強い景観を見せていた。東の岩石の前には、潮が引くと池のような深みができ、清楚な白鷺が羽を大きく広げて休んでいた。そののどかな光景は、竹富版「白鳥の湖」であった。

 夏の台風時には、太平洋の荒波が岩石にぶつかり、砕け散る波の乱舞は一大壮観であった。東の浜には浜昼顔が一面に広がり、紫色のあざみの花と白いハマユウの花の上には、蝶が羽を合わせて休んでいた。保安林の下では、陽光をはね返すような勢いで竜舌蘭がたくましく背伸びをしていた。
 山羊の草刈りを終えると、少年たちは竜舌蘭の厚い葉に、先生の悪口、憎い先輩の悪口、社会性のない悪いお爺さんの悪口などを書いて、一時的な欝憤を晴らしたりした。

 晩秋には、鷹の集団が島の上空に現れ、勇壮に旋回しながら南下して行った。冬季になれば、サトーキビの穂花が島全体を包み、美しい冬景色を映し出していた。
 強烈な夏の太陽が西表の山々に沈む頃、私たち少年は西の浜辺へ泳ぎに行った。日暮れ時になると、千鳥の群れが水面すれすれに、北へ南へと一糸乱れずに飛び交っていた。その光景は、運動会の集団演技に似ていて、実に楽しく愉快であった。
 静かな西の浜で何の屈託もなく、夕焼け空を眺めながら自由に水泳を楽しむ竹富の少年たちは実に幸せであった。西の浜から近くに見えるコンドイの浜は、八重山でもっとも名高い海水浴場で、「潮がれ浜」として知られている。
 今では夏場になると、白い砂浜、きれいな海、輝く太陽、潮風の匂いを求めて、本土からの観光客が押し寄せて来る。作家の森村桂さんは、この浜を「夕日が沈む浜」と命名し、竹富島を「天国に1番近い島」と、全国に紹介してくれた。
 1度訪れた人々は、この浜に魅了されて「竹富病」に罹るという。竹富スズメのもっぱらの噂である。

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港の移り変わり

 西塘は大永4年(1524年)に、琉球国王から竹富大首里大屋子(八重山の統治者)に任じられ、郷里竹富島のカイジ原に蔵元(行政庁)を置いた。八重山出身者によるはじめての八重山全島の統治であった。
 カイジの港は、八重山の中心港となり、年貢はカイジ港から琉球王府に運ばれたという。しかしながら、カイジ港の繁栄は長くは続かなかった。竹富は土地が狭い上に交通が不便という理由で、蔵元(行政庁)は天文21年(1543年)に石垣島へ移転されたからである。
 それに伴って、竹富島の年貢は石垣島を経由して沖縄本島へと運ばれることになるが、そのときにカイジの港も廃され、ミシャシ(美崎)のガンギー(石の桟橋)を利用することになった。以後、ガンギーは、大正末期まで島の主要港として機能した。
 大正天皇と皇后陛下の御真影は、大正6年の12月に、このガンギーから奉迎された。また、明治36年から大正末期までの出征軍人の送迎も、このガンギーで行われたのであった。
 明治36年と言えば、日露戦争開戦の前年である。竹富島から日露戦争へ出征した兵士として、細原千明、古見多那などの名前が知られているが、なかでも古見多那はラッパ手であったという。

 ところで、竹富島の海上交通はいわゆる伝馬船と呼ばれるものであったが、大正14年に発動機船に変わった。発動機を載せた「富島丸」の運航開始は、海上交通の一大革命であり、人々は歓喜に満ち溢れていた。
 発動機船の登場は、島の産業である農産物の増大に伴うものであった。従って、ガンギー(石の桟橋)は手狭となり、昭和のはじめに港は竿原(現在の港から700メートルほど東の地)に移された。昭和天皇と皇后陛下の御真影は、昭和3年10月に竿原の港から新装なった竿原道路を通って奉迎されたのである。それから5年後の昭和8年、大舛桟橋(現在の竹富港)が完成した。昭和10年頃の竹富と石垣間の運航時間は約45分であった。

 はじめて発動機船に乗船したときの感激は今でも忘れられない。航行中に他船を追い越したときの痛快さは、子供心にも何とも言えない感動と喜びであった。しかし、エンジンの故障で、一時の漂流を余儀なくされることもあった。朝、竹富島を出航した直後にエンジンの故障、暫くして始動したが石垣島を前にしてまたも故障。しかも、船の後方には豚を載せていたので、豚の強烈な匂いが船酔い以上の豚酔いにさせた。乗客の顔は真っ青で、ゲーゲーと吐く始末であったが、何とか石垣島にたどり着いた。
 夕方になると、石垣島から竹富島へと帰還したが、生憎午後は強風に変わっていた。発動機船の威力で、石垣の桟橋を出て、竹富の桟橋の手前までは来たが、そこからがたいへんであった。風が強いために桟橋に近づけない。ロープが届けば、それを手繰り寄せて桟橋に船を横づけできるのだが、ロープを投げても、桟橋に届かない距離である。
 そこで、乗客であった泳ぎの達人安里亨さんの出番となった。亨さんは特攻精神で、荒波の中にザブンと飛び込んだ。船のロープを口に銜えた亨さんが、スイスイと泳いで桟橋に上がると、乗客からは歓声と拍手が湧き起こった。おかげで、船は桟橋に横づけされて、乗客全員がぶじに上陸できた。
 そして、安里亨さんの勇気と行動力は高く評価され、一躍竹富島の英雄として知られるようになった。思い出の多い竹富の港である。

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憧れの台湾出稼ぎ

 わが沖縄県には、「蘇鉄地獄」と称される飢餓の時代があった。それは、大正末期から昭和6、7年頃までで、蘇鉄を食べて飢餓を凌いだからである。当時の押し寄せる不況の波はいよいよ深刻となり、竹富島でもこの生活苦を切り抜けるために、台湾出稼ぎについて頻りに話し合われた。
 竹富島で台湾出稼ぎの先陣を切った人々は、大浦正亮、三盛尚徳、竹島馨、前三盛芳、高野キヨさん等で、それは大正8年のことであった。以後、小学校を卒業した少年少女たちは、次々と台湾出稼ぎを希望して、出発準備に取り掛かった。子供の初旅を見送る母親たちは、
 ヨーヨー、モーキリヨー。ジンヤ一番、キンコーヤ二番、ティガミヤ三番ドー(いいかい、うんと儲けろよ。お金が1番、健康は2番、便りは3番だぞ)
 と、強く言い聞かせたものだった。

 台湾に着いた少女たちの多くは、ヤマト人の子守りや女中となり、ネーヤと呼ばれた。また、少年たちは、ヤマト人の商店の丁稚となった。
 しかし、大正15年に発表された広津和郎の『さまよへる琉球人』にも描かれているように、台湾においても、ヤマト人は琉球人を差別していた。その差別から逃れようと、琉球的な苗字を棄ててヤマト人的な名前に改めたり、本籍をヤマトの他府県に移したりする人も出てきたりしたのである。
 ヤマト人に差別された台湾生活ではあったが、竹富の若者たちは、それにもめげず台湾を目指したのである。昭和5年の先島朝日新聞は、台湾で生活する八重山出身者は1,200人で、その内の500人が竹富出身者であると報じているが、それには台湾生まれの竹富二世の数も合まれている。

 昭和10年10月から40日間にわたって、始政40周年記念台湾大博覧会が開催された。「内台一如」つまり、台湾は内地の延長であるという博覧会であった。大博覧会は空前の盛況を極め、大成功裏に閉幕したが、それを機に台湾への出稼ぎ熱はますます高まり、昭和12年の在台竹富出身者は1,200人に達していた。
 ふるさとを後にして台湾で働く竹富娘たちは、大衆食堂「来々軒」に集まり、テードゥンヤマト口(竹富式の共通語)で、上品に島のニュースをはじめ、苦労談や失敗談を声高に話し合って、心の憂さの捨て所にしていた。彼女たちが共通して心に深くあるのは、50銭でも1円でも多く両親に送金したいという純真な乙女心であった。
 台湾帰りのオバー(おばさん)たちは、「あの頃台湾で話したテードゥンヤマト口(竹富式共通語)の思い出は忘れられない。あれほど楽しく、懐かしい言葉はない」と今でも話している。
 また、あるオバーは、「台湾で、3年間女中奉公したので、家政女学校生と同等の社会性と教養を身に付けた」と、誇らしく話してくれた。因みに、当時の台湾行きの運賃は、大人6円20銭だった。

 当時の八重山の人々は、出稼ぎ先の台湾で、新しい文化を経験した。竹富島の人々も、台湾から伝わってくる電気や水道や電話や汽車やラジオの話を聞いて、明治以来の近代化を知った。それと同時に、台湾出稼ぎは、竹富島の経済を支えていたのである。
 要するに、植民地台湾から学び取った文化や教訓は、竹富島の生活史に大きな役割を果たしていたのであり、竹富の人々にとって、台湾は忘れられない心のふるさとである。

(『星砂の島』第5号より)

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