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竹富島Q&A

「みんなで、テードゥン(竹富)島を知る」ために、このコーナーを設けました。
竹富島に対するあなたのご質間やご感想などをお寄せ下さい。
ご質問に関しては、『星砂の島』編集委員会が調査隊を編成し、独自の方法で可能なかぎり調査します。
 (会誌『星砂の島』より抜粋)

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地名について

Q 竹富島の名前の由来を聞かせてください。

Q 竹富島の港近くの地名をホーシと言い、「大桝」という漢字を当てていますが、その地名の由来を教えてください。

Q 竹富島の中央部の小高い丘を「ンーブフル」と言いますが、語源はどうなっているのでしようか。

Q 竹富島の東のほうの浜辺とその辺りの地名をアイヤールと呼んでいますが、その地名の意味を教えてください。

Q 竹富島のコンドイ浜は、美しい海水浴場となっていますが、コンドイとはどのような意味ですか。

歴史について

Q 竹富島の中央部に、トゥールングスクという小高い丘があります。誰が何の為に築いたものですか。

Q 竹富島では、ムーヤマの神様ということをよく耳にしますが、そのムーヤマについて教えてください。

種子取祭について

Q 種取祭の日程は、いつ、どのようにして決められるのでしょうか。

Q 種子取祭を行うユームチウタキ(世持御嶽)について、教えてください。

その他

Q 竹富島の民謡「安里屋ユンタ」は大変有名ですが、共通語で歌う「安里屋ユンタ」は、誰が作ったのでしょうか。

Q ツンマセーとはどうゆう意味ですか。また、それはなんのために作られたのですか。

Q 竹富島のお墓を見ますと、すべてのお墓正面は近くの海の方向に向いています。何か理由があるのでしょうか。

Q ミンサー織りの「ミンサー」の意昧を教えて下さい。

Q 竹富では、猫をマヤといい、山羊をピーザといいます。その2つの語源を教えてください。


地名について

Q 竹富島の名前の由来を聞かせてください。「竹富」は当て字ですか。それとも、竹が多かったとか、何か意味があったのでしょうか。

A  「竹富」の呼称は、現在の方言で、「テードゥン」と言いますが、古くは「タキドゥン」と発音されていました。何故、「タキドゥン」が古く、「テードゥン」が新しいのか、と言いますと、古い言葉の呪詞や古謡や狂言では、すべて「タキドゥン」と発音しているからです。
 さて、「タキドゥン」の語源についてですが、与那国善三さんは、古老の伝承として、「花城御嶽(ハナックオン)を創建したタカネトノの名前から、タキネトノ−タキドウン−テードゥンに転訛した」と述べています。また、医学博士崎山毅さんは、薩南諸島の島名や地名と八重山諸島の島名や地名が対比している(例えば、1.黒島−黒島。2.西表島−種子ガ島の「西の表」。3.ヤラブ岬−口の永良部。4.波照間島−加計呂麻島など)として、「竹ドゥン」の名前は、「竹島」と関係があると述べています。

 いずれも、興味深い考えを示していますが、それぞれに弱点もあります。まず、前者の説ですが、「タカネトノ(他金殿)という個人名が島の名前の由来になった」ということに疑問を感じます。もちろん、小笠原諸島のように、個人名が島の名前になるという例外がないわけではありませんが、極めて少ない例です。一般には、地名や島名が先にあり、それに因んで個人名が出て来るからです。
 また、後者の説は、八重山の祖先が、薩南諸島から八重山へ移住したという前提で成り立っているわけですが、そのことがはっきりと証明されていないという弱点があります。

 以上のような理由で、竹富の語源は、どうもはっきりしないというのが現状です。はっきりしないことに便乗して、私なりの考えを申し上げますならば、次のようになります。

 呪詞や古謡を見ますと、タキドゥンの対語として、ナカダギが出て来ます。対語は、竹富だけではありません。黒島の対語はサフ島(珊瑚の島)、大石垣の対語はウフムトゥ(大元)、波照間の対語はシムヤイマ(下八重山)などのように使われます。
 これらの対語を見ますと、黒島は、特に珊瑚礁が日立つのでサフ島(珊瑚の島)、石垣島は八重山の政冶経済の大元、波照間島は八重山の下(最南端)に位置する、などのように、その島の特色を表しています。
 そのような対語の使われ方を考えた場合、タキドゥンの対語であるナガタキは、「名が岳(岳はないのに、名前は岳である)」という意味に解釈されます。従って、タキは「岳」であろうと考えられます。
 対語のナカダキ(名が岳)から考えて、タキドゥンのタキが、「岳」であるとすると、タケトミの語源は、タキネドゥン(岳無所)だったと思います。すなわち、タケトミ島は「タキネドゥン=岳(山)の無い所」と呼ばれていたが、タキネドゥン−タキンドウン−タキドウンと転訛し、そして、テードゥンになったのではないかと思われます。

 なお、タケトミの漢字表記については、『指南広義』や『中山伝信録』では、「達奇度奴」と記していますが、古い記録では「武富」の表記が多く、明冶19年の記録でも、「武富」と表記しています。従って、現在の「竹富」の表記は、それ以後に一般化したものと思われます。

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Q 竹富島の港近くの地名をホーシと言い、「大桝」という漢字を当てていますが、その地名の由来を教えてください。

A  ホーシのホーは、「大」という意味で、「大」の方言は、ウフとも、フーとも、ホーとも言います。また、ホーシのシは、ホーマシのマが脱落したもので、マシとは、四角に囲ったもの、桝形のもの、という意味です。例えば、「田んぼ」や「豚小屋」なども、桝形の四角いものなので、マシ(桝)といいます。従って、ホーシに「大桝」という漢字を当てるのは、方言を直訳して漢字を当てたことになります。
 さて、ホーシ(大桝)の意味ですが、それは「大きな田んぼ」のことです。民謡の「真栄節(まさかいぶし)」の中で、「ウフマシぬ、ナガマシぬ、ゆやんどう(大桝の、長桝の、故に)」と、歌っていますが、それは、「大きな田、長い田が、欲しくて」という意味です。すなわち、ホーシも、ウフマシも同じ意味であり、発音が違うだけということですね。

 港近くのあの地域をホーシ(大桝=大きな田んぼ)と呼んでいたわけですが、想像するに、ホーシでは、実際に稲作が行われていたようです。昔の稲作の方法は、雨が降ると、牛や人が足で土を踏み固めて水溜りを作り、その水溜りを利用して稲を作りました。そのような方法で、ホーシ(大桝)でも稲作をしていたようですが、そのようにして稲作をした土地は、たいてい道路よりも、耕作地が一段と低くなっています。
 ホーシの耕地は、両脇とも、道路よりもかなり低くなつていますが、かつては、そこで稲作が行われていたと思われます。それで、ホーシ(大桝=大きな田んぼ)という地名になったのではないでしょうか。

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Q 竹富島の中央部の小高い丘を「ンーブフル」と言いますが、私たち仲筋会では、古老たちの言い方にならって、「ンーブイ」と呼んでいます。どの呼び方が正しいのでしょうか。また「ンーブイ(ンーブフル)」の源は、どうなっているのでしようか。

A  ンーブイか、ンーブフルかについてお答えする前に、まず、その語源を説明します。伝説では、「夜中から夜明にかけて、牛が、ンブー、ンブーと鳴きながら、角で築き上げたのがンーブイである。それ故ンーブイ(ンーブフル)と言う。」と語つておりますが、これはいわゆる民間語源説です。正しくは、フンムイからンーブイに転靴したと考えるべきであり、フンムイのフンは、民謡にも歌われているように「国」の字を当てて、島や区域を指します。
 例えば、「島やりどう、国(フン)やりどう、くゆさる(島だから、国だから、貧しい)」のように、フンは島と同じ意味で使われていることがわかります。また、ムイは、「盛り」で、「盛り上がったところ」「小高い場所」の意味です。
 従つて、ンーブイとは、「島の盛り上がったところ」という意味で使われていたことがわかります。そのンーブイが、いっしかンーブフルとも呼ばれるようになりましたが、ンーブフルは、ンーブイ・フルの転靴で、フルは「原」だと思われます。

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Q 竹富島の東のほうの浜辺とその辺りの地名をアイヤールと呼んでいますが、その地名の意味を教えてください。

A アイヤールとは、アイバル(東原)のことです。アイが「東」の意味を持つのは、太陽が上がる方向をアガリ(上がり)と呼んだためで、そのアガリがアイに転訟したのです。また、ヤールはバル(原)で、バル(原)のバがヤに訛り、長音化してヤールとなっています。
 バがヤに転訛することは、他の事例もあります。たとえば、田んぼの土や樹木などが強い陽ざしに照らされてひび割れすることを、ピーバリ(日割れ)といいますが、それが訛って、ピーヤリともいわれます。【玉城憲文】

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 竹富島のコンドイ浜は、美しい海水浴場となっていますが、コンドイとはどのような意味ですか。またお隣のトゥードイの意味も、併せて教えてください。

   コンドイの語源には、2通りの説があります。
 宮良当壮著『八重山語彙』は、「コンドイ=幸本と書せり」とあり、かたや喜舎場永c説では、「帆船当時、西表島古見村に渡る際に天侯次第によっては、停泊を余儀なくされる事に因み、古見泊−コンドイと呼ばれるようになった云々」と記しています。
 つまり、コンドイの語源には、「幸本泊」と「古見泊」があります。また、「今泊」と記したのもありますが、それは音表記であろうと思慮されます。
 トゥードイについて、崎山毅翁は、「艫(とも)解き−トゥードイ」とし、艫綱を解いて出港する所の意と解されました。確かに、「ともどき−トゥードイ」と方言は訛りますが、それには疑問点があります。
 例えば、コンドイにしても、トゥードイにしても、海岸に沿った地名です。従って、両者の末尾の「ドイ」は「泊(とまり)−トゥマイ」の略語と考えて間違いありません。周知の通り、泊は「船の碇泊する所・港」の意で、それが転じて海岸全般を方言で「トゥマリ・トゥマイ」といいます。よって、崎山翁がいわれた「解き−ドイ」は当を得ないと考えられます。
 さて、前者のコンドイについては、あくまでも私見ですが、「幸本」説が正しいと思われます。というのは、コンドイの浜から数十メートル上がった所に「コンドイ御嶽」と呼ばれる拝所があります。そこは幸本村の領主(幸本フンガワラ)に因む拝所です。
 恐らく領主の名前に由来して、「幸本泊−コンドイ」に訛ったのであろうと考えられます。(玉城憲文)

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歴史について

Q 竹富島の中央部に、トゥールングスクという小高い丘があります。その名前の由来を教えてください。また、それは誰が何の為に築いたものですか。

A  トゥールングスクとは、「通るの城(グスク)」の意で、「通過するための城」として築かれたのではないかと考えています。その理由は、宮古島の首長の豊見親軍と琉球国王軍が1500年に、石垣島のオヤケアカハチを攻めましたが、そのための出城として築いたと思われるからです。
 トゥールングスクの近くには、トゥンナカー(豊見親井戸)があり、トゥンナカーは宮古島の首長・豊見親が掘ったという伝承がありますが、その伝承では、トゥールングスクも豊見親が築いたと伝えています。
 但し、琉球大学の西里喜行先生は、トゥールングスクは、オヤケアカハチ征討後の八重山統治の居城であったと述べておられます。あるいは、ひょっとすると、トゥールングスクは、オヤケアカハチ征討後に、宮古島の豊見親が築いたのかも知れません。いずれにしても、豊見親と関わりのあるグスク(城)であったと思われます。

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Q 竹富島では、ムーヤマの神様ということをよく耳にしますが、そのムーヤマについて教えてください。

A1  沖縄では、本土の神社に当たる拝所をウタキ(御嶽)といいますが、竹富島ではその拝所を、オン(御嶽)・ヤマ(山)・タキ(嶽)・ムル(杜)などと呼びます。従って、ムーヤマ(六山)とは、「六つの拝所」という意味であり、竹富島の数多くの拝所の中でも、もっとも重要な拝所のことです。
 ムーヤマに祀られる神々は、「六人の酋長たちによつて、屋久島・徳之島・久米島・沖縄本島などから分神した」と古文書に記されています。その起源は明確ではありませんが、西暦1500年以前のことではないかと推察されます。現在、ムーヤマの一つである花城御嶽周辺の発掘調査が始まっていますので、出土品から年代がなどが明らかにされるであろうと期待しています。【玉城憲文】

A2 上勢頭亨さんによると、竹富島の拝所は86カ所あり、そのうちで、御嶽と呼ばれるものは24カ所あるとのことです。その24カ所の御嶽の中の、玻座間御嶽・仲筋御嶽・幸本御嶽・久間原御嶽・花城御嶽・波利若御嶽をムーヤマ(六山)と呼んでおり、竹富島の重要な拝所となっています。
ムーヤマでは、それぞれの祖神を祀っており、各々の御嶽には、各々の村があったと伝えられていますが、『琉球国由来記』はそのことを次のように記しています。
昔、竹富島に、玻座間村の根原かみとの、仲筋村のあらしはなかさなり、幸本村の幸本ふしかわら、久間原村の久間原はつ、花城村のたかねとの、波利若村の塩川との、という6人の酋長がいた。6人の酋長たちは心を合わせ、島のため、作物の実りために守護神を拝みたく思って、願ったところ、願いが叶い、神様が各々の島から渡ってきた。それで、6人の酋長をはじめ、村の者たちは謹んで敬い、各々御嶽をこしらえ、拝み始めた。
 以上のような由来を持つムーヤマは、ムトゥヌヤマ(元の山)と呼ばれ、カンツカサ(神司)、テジリビ(手摺り部)・トゥヌイムトゥ(殿居元)・ヤマニンジュ(山人数=氏子)などで組織されています。
 そのムーヤマとともに、重要な御嶽が、フイナーオン(国仲御嶽)・清明御嶽(マイノンともいう)・西塘御嶽で、それらをムラオン(村御嶽)と呼んでいます。【阿佐伊孫良】

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種子取祭について

 種取祭の日程は、いつ、どのようにして決められるのでしょうか。

  種子取祭は、例年決まった日に行われます。種子取祭は、十干と十二支の組み合わせ、すなわち干支の「戌子」の日と決まっていますので、60日に1回だけ廻ってくるということになります。
 ただし種子取祭は、「節祭り(しちまつり)」を起点とし、旧暦8月8日の「世迎え(ゆーんかい)」の祭りを経て、戊子の日に種子蒔きの行事を行い、その2日後の「庚寅」と3日後の「辛卯」の両日に本祭りを行うことになってます。その理由は、「節祭り」で土地を清めて、「世迎え」で、ニライカナイから穀物の種子をいただき、種子取祭で種子を蒔くというように、農暦に合わせて祭りを行うからです。

 ただ、以上の説明ですと、島外に住む人々にとって、種子取祭の日程を知るのは、なかなか難しいことです。そこで、種子取祭の日を知るための簡便な方法として、次の方法をお奨めします。
 まず、新暦と旧暦の両方を記した暦を手に入れます。そして、新暦の10月、11月の間に廻り来る、旧暦干支の「庚寅」と「辛卯」の日を確認して下さい。その両日が、芸能を奉納する種子取祭の本祭りです。

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Q 種子取祭を行うユームチウタキ(世持御嶽)について、教えてください。

A1  ユームチ(世持)とは、琉球王府時代の村の責任者のことで、竹富島では玻座間村と仲筋村にそれぞれユームチ(世持)がいました。その時代は、士族と平民に分かれていましたが、ユームチは平民から選ばれたもので、さしずめ今の区長というところです。ユームチは、農事や村行事などの諸行事をとり仕切るとともに、オーセ(村番所)に出向いて、士族と平民たちとの仲介役をすることもありましたが、もっとも重要な仕事は、村人全員が人頭税をとどこおりなく納められるよう指導することでした。そのようなユームチたちのご苦労を称えて祀ったのが「世持御嶽」です。【玉城憲文】

A2 世持御嶽は、世持神(農耕の神のこと)と火の神をまつる御嶽で、昭和2年に竹富村の村役場の敷地内に建てられましたが、昭和5年に現在の場所に移されました。
 火の神には、竈の神として各家庭でまつるものと、琉球国王を太陽の子孫と見なしてまつる太陽神がありますが、琉球王府時代のオーセ(村番所)では、士族たちが、太陽神としての火の神をまつっていました。また、オーセ(村番所)には、ハンタヌマイ(拝板の前)というのもありました。
 琉球王府時代の竹富島における農耕儀礼は、士族たちの信仰する火の神とハンタヌマイ(拝板の前)の二神の前で行われていましたが、明治30年の蔵元・村番所の廃止と同時に士族たちもなくなりました。それで、火の神もハンタヌマイも時代にそぐわないということで、明治41年に火の神は清明御嶽(マイノンとも言う)に移され、ハンタ(拝板)は焼却されました。
 その結果、種子取祭は清明御嶽で行うことになったのですが、その後いろいろなことがあって、カンツカサ(神司)たちから、火の神を元の場所に移し、ハンタヌマイを復活するようにとの意見が出されました。そのとき、火の神は元の場所に移されましたが、ハンタヌマイは復活せず、それに代わるものとして、新たに「世持神」という農耕の神を作ってまつったということです。
 上勢頭亨さんによると、ハンタヌマイを再起せよというカンツカサ(神司)の主張に対し、頑強に反対したのが上間広起村長であり、世持御嶽を創建し、世持御嶽と命名したのも、上間村長であったとのことです。
 それ以降、種子取祭は竹富島の最大の行事となりましたが、その種子取祭のとき、世持御嶽で供える料理は3組です。1組は世持神への供物、もう1組は火の神への供物、そして、最後の1組は、当日世持御嶽に招かれたヤーヤマ(玻座間・仲筋・幸本・久間原・花城・波利若・国仲・清明の各御嶽)の神々への供物となっています。 【阿佐伊孫良】

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その他

 竹富島の民謡「安里屋ユンタ」は大変有名ですが、共通語で歌う「安里屋ユンタ」は、誰が作ったのでしょうか。種子取祭で歌う「安里屋ユンタ」とはずいぶん違うようですが。

A いわゆる「安里屋ユンタ」のメロデイーは、3種類あります。

 1つは伝統的なユンタで、労働歌として竹富島で歌い継がれてきたもので、これを島では「安里屋ユンタ」と言っています。

 2つは宮良長包作曲(沖縄師範学校の音楽教師)星克作詞(アメリカ統治時代の立法院議員)の「安里屋ユンタ」で、竹富島ではそれを「新安里屋ユンタ」と呼んでいます。この「新安里屋ユンタ」は、大阪のコロンビアレコードから発売されて、全国に普及したものです。

 3つ目は士族によって作られたと思われるもので、「安里屋節」と呼ばれています。

 「安里屋ユンタ」が三線の伴奏抜きで集団歌謡として歌われていたのに対し、「安里屋節」は初めから三線の伴奏で歌われていました。また、「安里屋ユンタ」と「安里屋節」ではメロデイーがまったく異なります。一方「新安里屋ユンタ」は、新時代の歌としてピアノの伴奏で歌われていましたが、「安里屋ユンタ」のメロディーに近いもので、共通語の歌詞で歌われます。
 しかし、近年では「安里屋ユンタ」も「新安里屋ユンタ」も、「安里屋節」と同様に三線の伴奏で歌われることが多く、その3つの歌が混同されたりしていますが、「安里屋節」のメロデイーはゆったりしています。

 さて、これら3つの歌の聞き分け方ですが、「安里屋ユンタ」は方言で歌われるテンポの速い曲、「新安里屋ユンタ」は共通語で歌われるテンポのやや遅い曲、「安里屋節」は方言で歌われるテンポの非常にゆったりとした曲、と覚えておくとよいと思います。

 以上のような聞き分け方ができれば、「安里屋ユンタ」の鑑賞者としては中級クラスですが、上級クラスになりますと、「安里屋ユンタ」の複雑な歌詞の理解を必要とします。
 「安里屋ユンタ」の本来の伝統的な歌詞は、安里屋のクヤマという女性を歌ったものではありません。確かに、歌い出しは、「安里屋のクヤマによ」で始まりますが、それは「安里屋のクヤマさんに目差役人が求婚したが断られた」と歌うだけです。「安里屋ユンタ」の主人公は、むしろクヤマに袖にされた目差役人です。伝統的な「安里屋ユンタ」のストーリーを紹介します。

 クヤマに拒絶された目差役人は、仲筋村へと走って行き、そこでイスケマという女性に出会って求婚し、両親の承諾を得る。目差役人は、イスケマを抱いてンブフル岡を越えて、玻座間村の自宅に帰る。イスケマはお酌が上手。屏風の中で、男の子女の子を作りましょう。男の子は島の指導者になってくれ。女の子は家庭を切り盛りしてくれ。

 以上のような内容が竹富島の「安里屋ユンタ」の伝統的な歌詞ですが、メロディーのまったく異なるゆったりとしたテンポの「安里屋節」も同じ歌詞で歌われます。また当然のことでありますが、星克作詞の「新安里屋ユンタ」の歌詞は、その歌詞とはまったく異なります。
 要するに、伝統的な歌詞と星克作詞の「新安里屋ユンタ」の歌詞があるわけです。ところが、実をいうと、伝統的な「安里屋ユンタ」や「安里屋節」のメロデイーで歌ってはいるが、伝統的な歌詞とはかなり異なる歌詞も伝承されています。その歌詞の内容は、「安里屋のクヤマさんは、目差役人の求婚を断った。夫は同じ島出身の男性がよい」というものです。
 この歌詞が生まれた背景には、「クヤマさんが目差役人の求婚を断った」ということが強調され、夫には石垣島からやってきた目差役人よりも、貧しい農民であっても地元の男性がよいとの思いから、そのような歌詞が歌われるようになったと思われます。ただし、竹富島で、その歌詞で歌うことは少なく、石垣島をはじめ、他の島々で歌われることが多いようです。  【狩俣恵一】

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Q ツンマセー(集落への入り口にある大きな木)とはどうゆう意味ですか。また、それはなんのために作られたのですか。

A1  ツンマーセ、あるいはツンマシヤーとも言いますが、その意味は「積み回す」ということです。集落の主要な出入口に設けられた石積みの台のこと。その中には、ガジュマルやアコー木を植えてあります。
 竹富島では、大桝道路やトゥムドイ道、ショール道などにあったが、現在完全な形で残っているのは、大桝道路だけになってしまいました。ツンマセーのはたらきは、集落内に悪霊が人り込むのを防ぐことです。【阿佐伊孫良】

A2 ツンマセーの語義は、「積み回し」が有力です。元々は、Y宇型の道路の交差したところにガジュマルやアコウの木が植えられていました。そのいわれは、それらの樹木の「木の精」、すなわち霊力が他の木よりも勝っているために、魔除けとして植えられたということです。
 この風習は、中国に由来するもので、台湾などにも見られます。ですから、元来は、ヒンプン(屏風)と呼ばれていたようですが、その樹木を大事にしようということで、周囲に「石を積み回し」て、ツンマセーというようになったようです。【玉城憲文】

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Q 竹富島のお墓を見ますと、すべてのお墓正面は近くの海の方向に向いており、村に向いているお墓は一つもありません。何か理由があるのでしょうか。

A よく観察されましたね。なかなか鋭い質問です。海の彼方には、ニライカナイという世界があって、そこから穀物の種子などが運ばれてくるということはよく知られており、竹富島のユーンカイ(世迎え)の行事などもその信仰から行われています。コンドイのニーラン石のところで、トンチャーを歌うあの儀式です。
 実を言うと、ニライカナイは、穀物の種子の「ふるさと」という役割だけではありません。害虫や病気もニライカナイからやってきます。人間の生命もニライカナイからやってきます。

 石垣島の人々は、かつて子供が生まれるとタキドゥンミー(竹富見せ)といって赤ん坊を浜に連れてゆきました。また、黒島の人々はウムトミー(オモト山見せ)といって、同じように赤ん坊を浜に連れてゆきました。このような習俗は、沖縄本島の東村などにもあり、本当の意味は、赤ん坊が生まれたことをニライカナイに報告する儀式であります。つまり、ニライカナイからは、穀物の種子ばかりではなく、人間の生命もやってくると考え、その報告の儀式がタキドゥンミーであり、ウムトゥミーであります。

 つまり、ニライカナイからは、人間の世界にありとあらゆるものがやってくるわけですが、またすべてのものがニライカナイに帰ってゆくと信じられました。旧暦3月にムヌンの行事が行われていましたが、そのムヌンで、害虫を芭蕉の葉の舟に載せて海に流したのは、ニライカナイからやって来た害虫を返す儀式でした。
 それと同じように、ニライカナイからやって来た人間の魂も、死ぬと、海の彼方のニライカナイに帰ると考え、お墓の向きをすべて海に向けているのです。

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 ミンサー織りの「ミンサー」の意昧を教えて下さい。

  竹富島ではかつて、ミンサーとは、「ミン=見る」「サー=サネサン(喜ばしい)の意、即ち「見て喜ばれる」といわれていましたが、これは単なる語呂合せに過ぎません。また、『沖縄大百科事典』でも、ミンサーについて述べていますが、その要旨は次のようなものです。

 −綿糸を藍などで染めて織った細帯のこと。八重山地方では婚約成立の記念に女性が男性に贈ったもの。従って絣の図柄には、四つ玉・五つ玉あり、「いつよ」までも末永くという願いが込められて、帯の両耳にはムカデの足に似たヤシラミ織りを配して、足繁くおいで下さいという意味の、通い婚時代を偲ばせる模様がある。
 −ミンサーは遠くアフガニスタンに源流をもつ小さな絣の帯が中国を経て伝来し、ミンは(綿)、サーは(狭)の意味である。

 つまり、ミンサーの語源は、「綿で織った狭い帯である」というのが、『沖縄大百科事典』の説であります。
 ところで、ミンサーは、中国を経て伝来したといわれていますが、ご当地・中国ではどのように解されているのでしょうか。中国語辞典には、「棉紗=棉花紡成的紗」と記しています。「棉紗」は、ミェンシャー」と読みます。従って、「ミンサー」は中国語の「ミェンシャー」が誰ったものであり、「綿狭」と解釈するのは妥当ではないと思われます。ちなみに、台湾でも綿製の布を「メンサー」といいます。
 また、帯の両端のヤシラミ織りは、通い婚時代の夫に対して、「ムカデの足の如く足繁く通って下さい」という女性の思いが込められているという伝承が存在していることは間違いありませんが、当初からムカデの足をイメージして織ったものではありません。というのは、東南アジアなどでもよく見かける模様であり、台湾の原住民(アミ族)の里(烏来)の民族衣装などにもヤシラミ模様が見られるからです。(玉城憲文)

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 竹富では、猫をマヤといい、山羊をピーザといいます。その2つの語源を教えてください。

  マヤについて。
 『沖縄おもしろ事典』では、「鳴き声からついたと思われると述べ、沖縄の猫の鳴き声はミャウミャウである云々」と述べています。
 八重山民謡の「与那国のマヤーグヮ節」では、〈マウてぃばマウてぃばよ〉と歌っており、「マヤユンタ」では〈ミャウミャウ〉と歌っています。
 また、竹富島でも、子供を脅かすときなどに、ウリウリ、カーラ、グルマーウヌ、クンドー(それそれ、向こうから、猫が、来るぞ)と、爺さんや婆さんたちがいっていました。従って、マヤは、鳴き声に因むもので、本来は「マーウ」です。
 それから、組踊の「花売りの縁」に、インマユ(犬猫)という台詞があり、波照間島では、今でも「マーウ」といわれているようです。以上のことから、マーウ−マユ−マヤと転訛したと考えられます。
 蛇足ながら、中国語でも「マーウ」といいますが、それも猫の鳴き声からついたもののようです。

 ピーザ・ヒージャーについて。
 ある本に、「山羊には髭があるから、つまりは髭あるものという意昧でヒージャーといった云々」と述べていますが、それは信懸性に欠けると思われます。
 私は、違う考えを持っていますが、紙幅の都合上、ここでは結論だけを申し上げますと、ピーザとは、「奴助兵衛」の意であると考えています。竹富方言に訳してイメージすればお分かりになると思います。いずれ、機会がありましたら、お話申し上げたいと思っています。(玉城憲文)

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