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池澤夏樹 作家 愚直で誠実な努力が今こそ必要
岡部伊都子随筆家 うれしいウツグミ魂の試み
白保台一 衆議院議員 てぇーどぅんひとぅです。
鈴木健二 熊本県立劇場館長 会の活動が「島おこし」になることを期待
須藤豊彦 國學院大學教授 積極的な島造りを目指して
筑紫哲也 ニュースキャスター 竹富島は異郷の世界を包含した小宇宙
福田晃 立命館大学 教授 種子取祭を維持再生する道
西里喜行 琉球大学教授 竹富島の文化を世界の人々と共有しよう
三隅治雄 民俗芸能学会代表理事 美を創り磨く「竹富島の人々」に感動
三村浩史 京都大学教授 「心のふるさと」竹富島を応援します
山下欣一 鹿児島経済大学教授 自然と人とが溶け合った島
横路孝弘 衆議院議員 自然と共生した先人の文化に学ぼう
愚直で誠実な努力が今こそ必要
日本の各地から伝統芸能や伝統行事が失われてゆく。たいていの場合、その理由は人がいないということである。大都市が若者をごっそりとさらっていって、村には老人たちしか残らない。こういう事態に抗して行事と芸能を維持し、更新し、創造してゆくためには、もう一つ工夫がいるようだ。(行事や芸能は、維持することがそのまま創造である)
やはり人が減っている竹富島の種子取祭を再創造するために、島内と島外と結ぶ組織を作ることは、今や全国的なこの種の問題への解決策の一例として、注目と支援に値する。
この試みが成功すれば、その成果は竹富島だけにとどまらず、影響は広く広く波及してゆくだろう。今のあさましい日本に必要なのは、こういう愚直で誠実な努力なのだ。
1945年北海道帯広市生まれ。1968年埼玉大学理工学部中退。1975年からギリシャに住む。1968年に『スティル・ライフ』で第98回芥川賞を受賞。主な長編として『真昼のブリニウス』、『マシアス・ギリの失脚』など。短編集に『マリコ/マリキータ』『骨は珊瑚、眼は真珠』。主な評論には『母なる自然のおっぱい』、『楽しい終末』などがある。1994年から沖縄に住む。芥川賞選考委員。
うれしいウツグミ魂の試み
初めて竹富島へ渡ることができたのは、一九六八年四月のことでした。なんと清らかで静かな美しい島、島人(しまんちゅ)の礼の深さ、情の濃さに抱かれて「この世にこんな夢ランドがあったのか」と、驚きました。以来、どんなにせつなくこぼしさま(=竹富島の子供たち)を思い、多くを島に学んできたことでしょう。
全国竹富島文化協会が創られる由、うれしいうつぐみ魂がよみがえりつづけます。
今日も、南の空を仰いでいます。
1968年に竹富島を訪れ、島の人々の自然と調和した生活と、竹富島の伝統文化の魅力に惹かれる。以来、竹富島をこよなく愛し続け、竹富島に赤瓦の家を建てられた。現在、その家は、「こぼし文庫」として、竹富島の子供たちの勉強の場となっている。箸書は、『古都ひとり』『美のうらみ』『女人の京』『心象華譜』『玉ゆらめく』『密の壷』など多数。岩波書店より『岡部伊都子集』全5巻を刊行中。
てぇーどぅんひとぅです。
そもそも竹富でありながら、竹富に住んだ期間は大変短い。しかし、それはなにも私一人ではない。竹富を離れてからの年月の方がはるかに長い多くの先輩が島の外で活躍している。
しかし、郷友会は竹富そのものなのだ。自らが生まれ育った地というものはその人の生活の中から離れないし根っこがしっかりしている。ある披露宴で祝辞を述べ、カチャーシーにも参加したのを見ておられた中学の恩師が「てぇーどぅんひとぅだね」とひとことつぶやかれた。文化は人を育て豊かにする。
自分を育んでくれている竹富への恩返しの意味からも「芸術文化振興基本法」を制定して21世紀の国づくりの基本にしたいと思っている。てぇーどぅんひとぅに始まるこころの豊さが拡がる。
昭和17年生まれ竹富島出身。代議士秘書14年、沖縄県議会議員3期10年を経て、平成8年10月には 衆議院議員初当選(沖縄1区)し、沖縄開発総括政務次官を3期連続で勤める。公明党衆議院小選挙区沖縄第1総支部代表。公明党副幹事長。公明党沖縄方面議長
会の活動が「島おこし」になることを期待
私はいま熊本県で県立劇場を核にして、日本初の文化を通しての村おこし町おこしのボランティア活動をしていますが、その一環として、琉球舞踊と熊本の若い人たちによる影絵劇「まつぼっくり」の交流もしました。
その際、訪れた竹富島の海の輝きに魅せられました。この美しい島は、日本の素晴らしい心の財産です。全国竹富島文化協会の活動が、「島おこし」につながることを期待しています。
1929年東京生まれ。1952年アナウンサーとしてNHKに入局。テレビ時代に入るや、あらゆる分野の番組に新境地を開拓。今日のテレビの基礎を築く。1988年から現職。著書は、『気くばりのすすめ』など多数あり、人生論を中心に180冊を越える。
積極的な島造りを目指して
南海に浮かぶ竹富島は、まさしく神と人とが共存する島である。島民の皆さんが古代の文化をそのまま継承し、また生活に息づいている事実に接して私は驚嘆した。
あれから20年近くの時が流れて顔ぶれも変わった。都市集中現象の波に押されて次代を担う若人が島から去ってゆく。〈ふるさとは遠くにありて思ふもの〉という消極的な心が蔓延すると、現存するふるさとの伝承は先細ってしまう。
全国竹富島文化協会に入会することは、積極的な島造りを目指すものである。
1935年横浜生まれ。1959年國學院大學文學部卒業。文学博士。日本歌謡学会常任理事、財団法人・海音寺潮五郎記念館理事。編著書『日本民俗歌謡の研究』『日本歌謡辞典』など。竹富島のコンドイ浜の美しさに感動。竹富島の歌謡が生活のなかで生き続けてきたことを実感し、著書のなかで、そのことについて触れている。
竹富島は異郷の世界を包含した小宇宙
私は復帰前の沖縄に足掛け3年住み、その後も年に5、6回行っているが、日本の中でいちばん人間らしい暮しをしている地域は、沖縄だと思っている。その最大の理由は、沖縄の仕会と人々のなかに占める文化の比重が「やまと」よりも、はるかに大きいということであろう。明治以来の近代化政策によって失われた精神世界の奥行きが沖縄にはあると思うのだが、沖縄の精神世界を支えているのは、小地域の村々や島々に代表される小宇宙の世界であると思う。
竹富島の素晴らしさは、景観の美しさ、歌謡や伝説や芸能が豊冨に伝承されていることにあるが、それに加え、ムーヤマ(六御嶽)の神々を中心とした小宇宙の世界があり、狭い人間世界に囚われず、異郷の世界をも包含した世界観を持っているからだと思う。
1935年大分県生まれ。1959年早稲田大学政経学部卒業後、朝日新聞社に入社。1968年〜1970年沖縄特派員。1971年ワシントン特派員。1981年テレビ朝日系のニュースキャスター。1984年『朝日ジャーナル』編集長。1989年にTBSテレビ「ニュース23」のキャスターとなり、現在も活躍中。著書『総理大臣の犯罪』『この「くに」のゆくえ』『筑紫哲也の「世・世・世」』など多数。
秀れた文化財として、竹富島に継承されてきた種子取祭の維持が困難になってきたと聞く。その豊かな奉納芸能に接するとき、わたくしどもは竹富島が八重山文化の中心にあったことを感得したのであるが、それが失われてしまうという。
なんとかこの芸能を維持・再生する道はないのか。わたくしは、それを単なる民俗に留めず、古典へ昇化させるとき、可能であると思う。竹富島の枠を越え、開かれた古典芸能としての道をお勧めしたい。
1932年会津若松生まれ。文学博士。奄美沖縄民間文芸研究会代表委員。著書『南島説話の研究』『神道集説話の成立』など。1971年以来、奄美・沖縄・宮古・八重山の昔話の調査を精力的に実施された。『竹富島小浜島の昔話集』の編著者でもあり、20年前の竹富島の古老たちとも親しい間柄であった。竹富島は、かつて八重山文化の中心であったことが感得できると話される。
竹富島を生活の舞台としていた頃、私の伯父・護得久朝輝(ごえくちょうき)は祭や祝いごとがあれば、必ず招かれて宴席で三味線を弾いていたから、私も竹富島の歌や踊りを見聞する機会は少なくなかったものの、日常的に享受している伝統文化がなにほどの価値を持つのか、当時の私には分からなかった。
しかし、島を離れて40年も経つと、島の伝統文化が自らのアイデンティティーとなっていることに気づかざるを得ない。その意味で、今は故人となった伯父を含む先人たちの伝統文化継承の努力に感謝したい。
今、郷里はどこですかと聞かれて、「竹富島です」と応えるとき、なんとなく誇らしげな気持ちになるのは、竹富島が世界に誇るべき独自の文化の宝庫であることを、自他ともに認識しているからである。島の文化を世界の人々と共有し、後世へ継承するために、全国竹富島文化協会が大きな役割を果たすことを期待する。
1940年竹富島生まれ。1969年京都大学大学院博士課程修了。竹富町史編集委員会副委員長、沖縄文化財保護審議会専門委員、那覇市史編集委員会委員、宜野湾市文化財保護調査審議委員。著書は『沖縄近代史研究』『論集・沖縄近代史』など。1988年「西塘考」の論文を発表。竹富島の伝統文化は、自らのアイデンティティーであると、竹富島に誇りを抱いている。
訪れた旅人はみな美しい島だと言う。景観も美しいが、その美を創り、磨くことに懸命な島民の心の美が感動をよぶ。
土壌は固く、水乏しく、忍苦の生活を昔から強いられてきたこの小島に、百を越す珠玉の歌謡があふれ、多彩な舞踊・楽劇・狂言の類が豊富に伝承されているのも、苦難の環境を歌舞の力で美に塗り替えようと努めてきた島民の美意識の堆積と言える。
心の働きが地域の美を生む。日本全土、竹富島に学ぶこと大である。
1927年大阪生まれ。1950年國學院大學卒業。文学博士。芸能学会会長。財団法人日本民俗芸能国際交流協会理事長・東京国立文化財研究所名誉研究員。編著書『日本舞踊史の研究』『芸能史の民俗学的研究』『原日本おきなわ』など。種子取祭の国立劇揚公演を推進されるとともに、種子取祭が文化庁より「重要無形民俗文化財」に指定される際に尽力された。沖縄の芸能に関する造詣の深さは夙に知られている。
「心のふるさと」竹富島を応援します
ヤマト人ではじめて種子取祭りの儀式に参列を許されたとき感激のあまり干鯛(かんたい)の皮を食べてしまいました。
私が魅せられた集落景観の美しさは、島の方々が生産、祭り、芸能、工芸、観光、町づくりと一体となって培ってこられたものですが、最近は白砂の道が荒れ、祭りや芸能の後継者も少なくなっているなど、まさに存亡の危機にあります。
どこにいてもふと想う。竹富島をこころのふるさととする同志とともに全国竹富島文化協会を応援します。
1934年和歌山生まれ。1957年京都大学卒業。専門=都市計画、町並保存計画。竹富島景観審議会会長、文化庁文化財保存審議会建造物専門委員、日本ナショナル・トラスト専門委員。1971年竹富島を訪れ、景観の美しさ、伝統文化の豊かさに感動。1973年竹富島の民家と集落の調査。竹富島が、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定される際に尽力された。
自然と人とが溶け合った島
八重山の海は開かれている。洋々たる大海に点在する島々をつなぎながら水平線へと果てしなく広がっている八重山の海。
竹富島は、このような八重山の海に浮かぶ星のような思いがしきりにする。それも、何回でも、足を運びたいと思う島である。まず、ふんわりと竹富島を包んでいる風がいい。また、あの古いたたずまいをゆっくり歩くだけでもいい。少し歩いただけで、「御嶽」に出会う。人々とともに、神々も、こんなに親しく鎮まり給うている。
そして、また、人々の風貌には、なんともいえない安らぎがある。空を仰げば、大いなる天空も、竹富島一点に集約しているような感じがする。自然も、神々も、人々も一体となった竹富島。あの島の道をもう一度歩きたいと思う竹富島。いつまでも変わらないでと、祈る思いしきりである。
1929年奄美大島生まれ。早稲田大学法学部中退、アメリカ・インディアナ大学民俗学研究所に学ぶ。文学博士。奄美沖縄民間文芸研究会特別委員。著書『奄美説話の研究』『奄美のシャーマニズム』など。竹富島の代表的な神様・ネーレカンドの伝承と根原家のこと、ネーレカンドを与那国島から迎えた出来事などを調査し、神話の再生についての諭文を執筆された。
自然と共生した先人の文化に学ぼう
北海道は先住民族であるアイヌ民族の人々の素晴らしい文化を持っています。それは自然と共生してきた文化です。秋、河で鮭をとるときでも全部捕り尽くすことなく、河の神様のために、熊のために、キツネのために、残すという習慣がありました。また、神様に感謝する祭りを欠かすことことはなく、それが神謡・ユーカラとして伝承されています。
沖縄竹富島の文化も、自然と共生してきた文化だと思います。21世紀の日本の社会は、これら先人たちの自然と共生してきた文化に学ぶことが必要であります。全国竹富島文化協会の活動が我が国の進路の一つとなることを期待しています。
1941年札幌市生まれ。1966年東京大学法学部卒業。1968年より札幌市で弁護士開業。1969年に急死された父に代わり、社会党から衆議院選に立侯補して当選。以後1980年の総選挙まで連続5回当選。1983年北海道知事選に立侯補、勝手連などの幅広い市民層の熱い支持で当選、当時全国で最年少の知事となる。以後3期12年にわたり知事をつとめ1995年4月に退任。
全国竹富島文化協会設立によせて (このページ)
会誌「星砂の島」
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