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琉球大学教授 西里喜行
石垣島の真正面に「しきた盆」のように浮かぶ竹富島に、人間の集団が定住して歴史を織り成すようになったのはいつ頃のことか。いまのところはっきりとは解らない。
けれども、私たちの竹富島には多くの神口(かんふつ)(祝詞)が伝承され、島の歴史の始まりを想像することのできる材料が残されている。また、最近、竹富島の一周線道路建設の途中で、伝承としてしか知られていなかった新里遺跡が発見されたり、カイジ浜貝塚が発掘されている。
このような遺跡や神口(祝詞)によって、島の歴史がいつどのようにして始まったかを考えてみよう。
竹富島最古の遺跡とされるカイジ浜貝塚の最下層からは、多量のシャコ貝やタカセ貝などの貝殻が発見されている。この貝塚は、11世紀から12世紀にかけて生活した人々の塵捨場であると考えられている。従って、竹富島に最初に定住した人々はシャコ貝やタカセ貝を主な食糧とし、海産物の採集を中心とする漁労生活を営んでいたことが想像される。
カイジ浜貝塚よりは後の時代に属する「新里村遺跡」は2つの村落跡をふくみ、ハナックンガー(花城井戸)をはさんで、東側の集落遺跡は12世紀から13世紀にかけてのもの、西側の集落遺跡は14世紀のものとみなされている。
前者からは堀立柱の建物一棟、玉縁の白磁椀、須恵器の壷、ユニークな新里村式土器などが発掘され、後者からは石垣囲いの屋敷跡(12〜13戸)、中国製陶磁器(青磁椀、白磁椀)、八重山式土器、鉄鍋、鉄製のヘラ、小刀、貝さじなどが出土している。
新里村に居住している人々はすでに農業を中心とする生活に入っていたものと思われるが、時代の異なる東西2つの集落跡はどのような関係にあったのか、遺跡だけではよく解らない。
なお、花城タカシルや牛岡などは15世紀から16世紀にかけての集落跡で、この時代には竹富島の内部にも政治的社会への胎動が始まっていたことを暗示しているといえよう。
注 牛岡(ンブフル)は倭寇の住居跡だという説もある。
古記録や伝承によると、竹富島の歴史の初期には6つの同族集団(血縁集団)の部落名とその首長としての6人の英雄の名前が登場する。
玻座間村の根原(ネーレ)カンドゥ、花城(ハナック)村の他金殿(タガニドゥン)、久間原(クマーラ)村の久間原(クマーラ)ハツカネ、波利若(バイヤ)村のスーカードゥン、仲筋村の新志花(アラシハナ)カサナリ、幸本村の幸本(コーント)フシンガーラの6人である。
彼らはいづれも薩南諸島や沖縄諸島などの北方の島々から守護神を招いて各部落の御嶽に祭ったという。いわゆる「六山(ムーヤマ)の神」であるが、後には6人の英雄たちが各々「六山の神」と一体化して祭られる対象となった。
6人の英雄たちが、「六山の神」と同様に北方から渡来したのか、それとも竹富島に生まれ育った人々であったのか、異なる時代に各々前後して竹富島へ渡来したのかはよく解らない。
伝承によって推測すれば、まず竹富島に渡来したのは、他金殿である。他金殿は島の北方に地下水(ハナックンガー)を発見し、まもなく同族集団を率いてハナックンガーの東側に新里村を築いて定住したので、この島はいつしかタキドゥンと呼ばれるようになったが、どういうわけか他金殿とその同族集団は島の東方へ移動し、新たに花城村を建てたという。
次いで渡来した根原カンドウの率いる同族集団がハナックンガーの西側に部落を形成し、もっとも有力な勢力に発展した。おそらく他金殿の系統の一族は根原カンドゥの一族の圧力に低抗できず、14世紀頃には東方の花城村へ移動せざるを得なかったものと思われる。6人の英雄に象徴される6つの部落の間では、激しい勢力争いが展開されたことを暗示する伝承も少なくない。
伝承と遺跡と古記録を結び付けて考えると、竹富島では12世紀から15世紀にかけて、いくつかの同族集団が部落を形成して定住し、漁労生活からはじめてまもなく農耕生活を営むようになり、互いに対立と抗争を繰り返しつつも、他方では協力と共存の道を模索していたといえよう。種子取祭の巻歌はこのような史実の残映とみなすことができる。
注 種子取祭の巻歌によれば、粟の種子蒔の日撰りをめぐって、根原カンドウと幸本フシンガーラとが争い、収穫の多寡によって前者の勝利が判明すると、まもなく他4部落の指導者(英捷)たちも根原カンドウに従い、以後島全体が一つになって種子取祭を行うようになったという。
竹富島の6人の英雄たちが活躍した時代は、琉球列島全体が首里王府のもとに統一されていく時代と重なり合っている。宮古・八重山が首里王府に入貢したのは1390年のことであるが、15世紀の末までは首里王府の直接の支配を受けていたわけではなく、各々独自の政治社会を形成しつつあつた。15世紀の後半には、宮古を統一した仲宗根豊見親がその勢力を八重山まで拡大しようとしていた。
その頃八重山では、石垣島北部の平久保加那按司、同島西部の仲間満慶、同島南部の長田大、同島東部のオヤケアカハチ、西表島の慶来慶田城用緒、与那国島のサンアイイソバ、波照間島の明宇底シシカドゥンなどの群雄が割拠して統一の主導権を争っていた。そのうち、もっとも有力であったのは、波照間島出身で石垣島東部を根拠地とするオヤケアカハチであつたが、竹富島もその影響下にあつたことを暗示する伝説がある(波照間屋敷伝説)。
しかし、15〜16世紀に活躍した前掲の八重山の群雄たちと、竹富島の歴史の黎明期に登場する6人の英雄たちとの間に、なんらかの関係があったかどうかは解らない。竹富島の6人の英雄たちは15世紀以前に活躍したと考えられているから、直接の関係はなかつたと思われる。
西塘(にしとう)が生まれたのは八重山群雄割拠の時代、オヤケアカハチが八重山統一を目指しつつあった時代である。首里王府への入貢を拒んだオヤケアカハチを制圧するために、1500年首里軍と宮古軍の連合艦隊が大挙して八重山へ押し寄せた。この時、竹富島の人々はソールあたりの浜で「軍船・人喰い船」が北方に姿を現すのを見て、びっくりして逃げ回つたという伝説がある(「アーパー石のユングトウ」)。
すでに10代の中頃に達していたと思われる西塘は、オヤケアカハチの軍勢に身を投じて首里・宮古の連合軍と戦ったのか、あるいは竹富島の人々とともに逃げ回つたのか、それとも首里・宮古の連合軍に協力したのか、よく解らない。いずれにせよ、圧倒的な遠征軍の攻勢を受けて、オヤケアカハチの軍勢が敗退するや、西塘もまた遠征軍に 「召し取られ」、首里へ連行されることとなる。
首里王府編纂の『球陽』によれば、西塘は「賦性俊秀にして器量非凡」で、抜群の才能をもっていたので、遠征軍の総大将大里は西塘を「帯して」首里へ帰り、三司官(首里王府の最高の役人)の家に「供奉」(奉公)させたと記録している。
また、伝承によれば、竹富島へ上陸した首里軍の総大将大里が部落を通過する際に、樹上で遊んでいた西塘と問答してその見事な応対ぶりに感心し、首里で教育するために連行したともいわれる。
郷里を離れて異郷へ赴くことは並み大抵のことではない時代であつたから、西塘は自ら首里行きを希望したわけではないであろう。竹富島の家族や同族集団から引き離され、未知の環境に投げ込まれた西塘は、人生の最大の試練に直面したといえる。
首里滞在の当初は言葉や風俗習慣の違いにも悩まされたことであろう。しかし、逆境は西塘を鍛え、大きく成長させた。西塘は持ち前の才能と忍耐力と勤勉努力によって、さまざまのハンディキャップを克服し、首里の先進文化を一つ一つ習得する。
当時の首里城には、尚真王が君臨し、北は奄美群島から南は先島諸島に至るまで琉球列島全体を統一するとともに、国内の諸制度を整備して独自の古代国家を完成しつつあつた。海外貿易からもたらされる富の蓄積を背景に、さまざまの文化事業も推進された。首里城を中心とする首都の町並みは、竹富島のような田舎育ちの西塘には別世界のように見えたことであろう。西塘は首里の先進文化を習得しながら、やがて石工技術者として才能を発揮し、その名を知られるようになる。
首里生活19年目の1519年に、園比屋武御嶽(そのひやんうたき)と弁カ嶽の石門を建造するよう命じられた西塘は、石門の建造に当たって、園比屋武御嶽の神に願を掛け、無事石門を建造して帰郷することができたら、郷里の竹富島に勧請して祭ることを誓った。まもなく園比屋武御嶽と弁カ嶽に、最新式の技術を取り入れた中国風アーチ型の立派な石門が完成し、石工技術者としての西塘の名声は高まった。この時、西塘は帰郷を願い出た。
1524年(尚真王48年)、西塘はこの間の忠勤と園比屋武御嶽などの建造の功績により、首里王府から竹富大首里大屋子(頭職)を授けられ、帰郷を許されることとなる。
(注) 従来の通説は西塘が帰郷した年を、『球陽』の尚真王48年の条の記事にもとづいて1524年としているが、記事の内容を注意深く読めば、必ずしもこの年に帰郷したとは解釈できない。『球陽』以外の諸史料はすべて西塘が「数十年間」首里に滞在したことを記録し、1524年に帰郷したとはどこにも書いていない。
西塘が「数十年間」首里に滞在したとすれば、園比屋武御嶽石門の建造から25年後の1544年に始まって1546年に完了した首里城の城壁拡張工事に、西塘も参加した可能性が高くなる。竹富島では首里城城壁を屏風式に建造したのも西塘であると伝承されているのであるから、西塘が帰郷したのは城壁拡張工事の後、つまり1546年以後のことと考えるべきであろう。とすれば、園比屋武御嶽石門の建造 (1519年)の後もなお長期にわたつて、西塘は帰郷を認められなかったことになる。
その理由は、八重山ではまだ首里王府への抵抗が根強く続いており、首里王府の役人たちは宮古・八重山の人間をまだ信用しきれなかったからであろう。しかし、城壁拡張工事が完了した頃には首里王府も、八重山出身者を登用する方が政治的安定にプラスになると判断し、西塘に竹富大首里大屋子の職を与えて帰郷させるとともに、首里から八重山統治のために派潰されていた満挽与人(マンピキユンチュ)を引き上げることにしたものと思われる。
八重山出身の最初の頭職として錦衣を着て帰郷した西塘は、まず蔵元を竹富島に創建して八重山の行政を統括した。竹富島が八重山行政の中心地に選ばれたのは、単に西塘の郷里であるという理由だけでなく、歴史的な背景があったと見るべきであろう。
西塘が首里へ連行されてから帰郷するまで、八重山の行政は宮古の仲宗根豊見親の次男祭金(マチリンガニ)、ついで三男知利真良(チリマラ)に委任されていたが、その間の行政の中心地は竹富島のトウールングック(豊見親城)であつたと考えられるからである。
西塘は行政機関をトウールングックから西南のカイジ浜の蔵元に移し、人心を一新して新たな政治を始める決意を示すとともに、さらに首里の園比屋武御嶽の神を竹富島の国仲御嶽に勧請して祭り、首里王府の安泰と民衆の平安を祈った。
蔵元が竹富島に置かれていた時期には、竹富島が八重山の行政の中心地であつたから、周辺の諸島から絶えず役人たちが往来し、物資の集散地としても賑わったことであろう。
しかし、地理的な不便さのためか、西塘はまもなく蔵元を石垣島へ移した。とはいえ、西塘の竹富島に対する愛着は強まりこそすれ弱まることはなかつた。竹富島の代表的な民謡「しきた盆」 には、西塘の竹富島に対する愛着と誇りが詠い込まれている。その最後の一句「賢くさやうつ組みど優る」(協同一致の精神こそいかなる賢人の能力をも超えることができる)は、西塘の政治信条を象徴する言葉として、竹富島の人々を励ます人生訓の役割を果たし、現代にまで引き継がれることとなる。
類い稀な才能と忍耐力で厳しい逆境を克服し、八重山出身の最初の頭職となつた西塘は、蔵元を中心とする行政機構を整備し、首里王府の八重山統治を安定させ、八重山の文明化=「琉球化」を推し進めるとともに、竹富島の人々をはじめ八重山の民衆を団結させ、八重山文化の独自性を保持する条件を整備しつつ、まもなく其の歴史的使命を終えたと思われる。もっとも、西塘が死去した正確な年月日を示す史料は見当たらない。
首里王府の遠征軍が八重山のオヤケアカハチを制圧してから109年後の1609年、今度は薩摩の島津軍が琉球へ侵入し、尚寧を捕虜として薩摩へ連行した。豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98)の頃から薩摩と琉球の関係は緊張していたが、徳川幕府が成立した後、薩摩の島津氏は幕府の承認を得て琉球を征服するに至ったのである。
島津氏は奄美諸島を割譲させて直接支配のもとに置いたものの、琉球王国を存続させて一定の年貢を取り立てるとともに、中国貿易の窓口として利用した。従って、島津軍の琉球侵入以後、琉球王国は実質的に薩摩藩の植民地となり、幕藩制の日本に従属するとともに、他方では依然として中国(明・清)との進貢貿易をも続けることになる。
八重山はすでに百年以上も前から琉球王国の植民地のような位置に置かれていたが、島津軍の琉球侵入以後にはさらに薩摩藩の支配が加わり、二重の従属を強いられる。1628(寛永5)年、八重山の25ケ村を3間切(大浜・石垣・宮良) に区分し、各間切に頭を置いて三頭会義で行政に当たらせることにしたが、1632(寛永9)年には、首里王府の出先機関として在番奉行が置かれ、八重山の行政を監督したが、さらに1641(寛永18)年には薩摩藩も直接八重山へ在番を派遣し、大和在番制度が始まった。
首里王府や薩摩藩が八重山に在番を置いたのは主として税収の確保とキリシタンや異国船の取り締まりのためであつた。島津軍の琉球侵入後2年目に実施された検地によって、八重山の石高は5980石余と計算され、それにもとづいて貢租が決定された。
その後、1637(寛永14)年に宮古・八重山には貢租を人頭割に賦課・徴収する「人頭税」が実施される。それから20余年の間に、4回の人口調査が実施され、そのたび貢訴額も変動したが、1659(万治2)年の人口調査にもとづいて定額人頭税となつた。
人頭税の実施によって、15歳から50歳までの男女は役人や身障者以外すべて貢租の負担者となり、貢租としての米や布を納めるために朝早くから夜遅くまで働かなければならなくなつた。稲作の不可能な竹富島の人々は、わざわざ西表島まで出張して稲作に従事せざるを得ず、反布の生産を担当した女性たちは村番所に付設された薄暗いあばら家で、3ヶ月間禁足状態に置かれ、役人の厳しい監督を受けながら織り立てに励んだ。
竹富島などの各離島や村々には微税の監督などに当たる役人として、与人・目差・耕作筆者・杣山筆者が配置された外、蔵元の行政機構も整備され、在番・頭の補佐官として大目差・大筆者・脇目差・脇筆者が置かれた。竹富島には1658年に与人(村長)、1660年には目差(助役) が置かれたが、1694年に竹富与人は玻座真与人と改称され、1729年には竹富目差も玻座真目差と改称された.島々に配置された役人たちは、島の娘たちを賄い女(家政婦)に指定したりして無理難題を押し付けることも少なくなかつた。
人頭税の重圧に堪えられず、波照間島などでは村ごと集団逃亡したという伝説も伝えられているが、ほとんどの島々や村々では労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額は累積するばかりであつた。
そこで、首里王府は在番を通じて監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を堆進した。いわゆる寄人政策である。この寄人政策は人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地や過疎地域へ強制移住させて開墾に当たらせる政策である。竹富島の人口は1737年に1071人に達し、人口過剰の島とみなされていたので強制移住の対象となつた。
たとえば、1711年には伊原間へ、1734年には74名が屋良部村へ、1738年には150名が椁海村へ、さらに1753年には200名が安良村へ、1771年の明和の大津波の直後523名が富崎へ強制移住させられ、後に盛山へ再移住させられた。
「生リヤ竹富 育ティヤ仲間ヌ マザカイ」という文句ではじまる「マザカイ節」は、竹富島で生まれたマザカイという男とその恋人が寄人政策によって竹富と西表に引き裂かれた悲劇を詠った民謡として知られている。寄人政策は親子・兄弟・夫婦・恋人たちを引き裂いたばかりでなく、移住地がマラリア地帯であったために、明和の大津波とともに八重山の人口減少の最大の原因となつた。
1771(明和8)年4月24日、石垣島の東南海域でマグニチュード7.4規模の大地震が起こり、それにともなう大津波が宮古・八重山諸島に押し寄せ、人命・財産に甚大な損害を与えた。この 「明和の大津波」 は震源地から西北方へ激しく押し寄せたが、石垣島から竹富島の東方海上にのびる厚い珊瑚礁の帯によって大きくブレーキをかけられた。
その結果、黒島と新城島は完全に波に呑まれて498名の死亡者を出したが、竹富島は平坦な小島であるにもかかわらず、島の一部だけが波を被っただけで、流出家屋もなく死亡者も一人も出ないという奇跡的な現象をもたらした。もっとも、公務で石垣島へ出張中の竹富出身者27名は津波の犠牲となっている。
大津波前の八重山の人口は28,896人であつたが、大津波によって、一挙に9,313人の死亡者を出して19,583人に減少し、以後年々減少の一途をたどり、百年後の明治の初期には1万1千人台まで落ち込んだ。
津波による耕地の流出、塩害による農業生産の激減、疫病(マラリア)の蔓延などに加えて、人頭税の負担、マラリア地帯への寄人政策(強制移住)などの人災もまた、人口減少の原因となつたことは言うまでもない。大津波の直後、竹富島から富崎へ強制移住させられた523名の人々は、さらに転々と移住地を代えさせられ、惨憺たる苦労を重ねたという。
他方、竹富島に留まった人々は、200年以上にわたる人頭税の重圧にもかかわらず、西塘の 「うつぐみの精神」を受け解いで島の伝統的な祭りを守り続け、多くの民謡を謡い縦ぎ、貢租を完納して村落共同体を維持するために営々と労働に励んだ。
やがて19世紀に入ると、疲弊した村落の振興のために率先して指導に当たる人物も現れ、1821年には大山筑登之親雲上が、1841年には与那国仁屋が村興しの功労により爵位を授けられている。
島津の琉球侵入から270年後に、琉球王国は名実共に消滅した。この間、琉球王国は日清両国に従属しながらも、19世紀の後半には欧米各国とも条約を締結し、名目上一つの独立国として認知されてきたが、1879年3月、明治政府は突然琉球王国を廃止して沖縄県を設置したのである。この措置は1871年の全国的な廃藩置県に準ずるものであるが、琉球の意思を無視して明治政府の軍事的威嚇のもとに一方的に断行されたことから、琉球処分とも移される。
琉球処分の波はたちまち八重山へも波及した。八重山処分官として来島した沖縄県属の渡辺簡は、廃藩置県についての明治政府の命令を伝達し、首里王府から派遣される在番の制度を廃止したが、蔵元をはじめとする従来の行政機構はそのまま温存した。従って、竹富島の玻座真与人もそのまま据え置かれることとなる。
しかし、翌1880年には蔵元以下の行政機構を監督するために蔵元の構内に八重山島役所が開設され、82年には役所内に郵便局設置、83年大川村に小学枚新築、84年甘藷栽培の開始、85年西表炭坑の採掘開始など、次々に新しい時代の到来を象徴する事物が現れた。
もっとも、明治政府は廃藩置県後も長期にわたって旧慣温存政策を採り続けたから、八重山の人頭税もそのまま温存され、人々は相変わらず人頭税の重圧とマラリアに苦しめられ続けることとなる。
この間、琉球処分に反対する士族たちの抵抗も続いた。清国政府も琉球処分に反対して明治政府に抗議した。日清両国は琉球問題を解決するために外交交渉を繰り返し、1880年10月21日遂に琉球分割条約を締結した。この条約では、沖縄本島以北を日本領土とし、宮古・八重山を清国に割譲することが取り決められ、10日後に調印することも約束された。
しかし、清国に亡命していた琉球人たちがこの条約に激しく反対し、清国当局に調印しないよう必死の嘆願を繰り返したので、清国政府も遂に調印を見送り、琉球分割条約は廃案となつた。八重山は危うく清国へ割譲されることを免れたわけである。もし清国がこの条約に調印していたら、竹富島の人々の運命も大きく変わっていたことであろう。
琉球処分によって始まった「大和世」は、八重山そして竹富島の人々にとってどのような時代となつたのであろうか。前述のように、明治政府は四半世紀にわたって旧慣温存を方針としていたので、この間の八重山はほとんど旧態依然のままであった。小学校の分教場が設置された1892年の竹富島の戸数は161戸、人口は956人で、人口の減少傾向に歯止めがかかったわけではなく、まだ明和津波前の人口数にさえ達していない。
人頭税の重圧が続く限り当然であろう。人頭税が廃止されたのはようやく1903年のことである。その前後から行政制度の改革が始まる。
1896年、郡制が施行され、八重山島役所を島庁に、役所長を島司に改め、島司のもとに各村頭を置くこととなり、竹富村頭には石庭英可が任命された。翌97年、蔵元、村番所が廃止された間切役場に取って代わられ、次いで土地整理・人頭税の廃止を経て、1908年には特別町村制施行の結果、一郡一村の八重山村が誕生し、竹富村頭は竹富区長と改称されるにいたる。八重山全域を一村とする行政組緑は不便を極め、当初から分村の要求が提出されたけれども、6年間も据え置かれた後、1914年に石垣・大浜・竹富・与那国の4カ村に分村された。
ここに、竹富村が誕生し、同年4月竹富村役場が竹富島に設置された。西塘の蔵元創建以来ほぼ400年後に、竹富島には再び行政機関が置かれることとなつたのである。以後24年間、竹富島は竹富村行政の中心地としての位置を占めるが、他の島々から交通不便との苦情が絶えず、1938年には村役場を石垣町登野城へ移転するに至る。
琉球処分から沖縄戦に至る「大和世」の時代に、竹富島は人頭税が廃止されたことによって政治・経済の面で大きく変化しただけでなく、社会・教育・文化の面でも著しい変化を蒙った。
1892年(明治25)年6月25日、大川尋常小学枚竹富分教場が発足し、竹富島にはじめて学校が開設されたことは、その後の竹富の発展に重要な意義をもつ出来事であった。士族や役人以外の一般農民の子弟にも教育を受ける機会が到来したからである。
この竹富分教場に6歳で入学した上間広起は、4年間の学業を修了した第1期卒業生 (10名)の1人であった。
その後さらに上間は内盛真津らとともに八重山高等小学校へ進学、石垣島で寄宿生活をしながら学業を積み、5年後のい1902(明治35)年に卒業して竹富島へ帰るや、母枚の代用教員を拝命する。
この時、上間はすでに2年前に代用教員となつていた内盛らとともに矯風会を組線して風俗改良運動をはじめた。
小さな竹富島の内部でも、上間や内盛らを中心とする若い世代の聞から、強力な「大和」化=「文明」化の波が湧き起こりはじめたのである。
「大和」化の風潮は日露戦争を経て一層強力に准し進められた。1906(明治39)年には竹富分教場も独立して竹富尋常小学杖となり、児童数も186名に達して「大和」化のセンターとなつた。
上間は日露戦争後の朝鮮において兵役に服し、下士官として認定される。竹富島の人々から「大和世」の象徴とみなされた上間は、竹富村が直生した1914(大正3)年、竹富村雇として採用されるとともに、在郷軍人会竹富分会副長を委嘱された。その後、上岡は竹富村書記、村会議員、村長などを歴任する傍ら、竹富同志会を組緑して常にリーダーシップを発揮しつつ後進を薫陶した。
上間の薫陶を受けて上級学枚へ進学したのは、与那国善三、崎山毅、細原徹、前新加太郎、前新雄三らであり、彼らもやがて教育界・医学界などで活躍するようになる。また、大山真整、入仲本真要、富本勉、新裕吉、玉盛淳博、野原安雄、上勢頭亭なども上間の直接の指導を受けた人々で、後に島の指導者として活躍した。
「大和」化の牽引者であった上間広起が竹富島の将来を案じつつ死去したのは、日米開戦の翌年(1942年)のことである。初戦の華々しい戦果が宣伝されたのも束の間、日本敗戦の色は次第に濃くなり、竹富島にも重苦しい戦雲が漂いはじめた。
1944(昭和19)年、南西諸島に沖縄守備のための第三十二軍が組織され、竹富島にも大石喬を隊長とする大石隊は米英軍の上陸を迎え討つために陣地構築などの準備を進め、新裕吉区長は大石隊への食糧・家畜の供出、軍労務者の徴発などに奔走し、島民の一部は万一に備えて西表島へ疎開させられた。
大石隊長の冷静な情勢判断と駐留兵士の間で規律がある程度保持されていたことによって、大石隊と島民の関係は比較的良好で、多くの島民はあらゆる方法で大石隊へ協力した。
1945(昭和20)年3月末から6月末へかけて、沖縄本島では米軍の艦砲射撃にはじまる「鉄の暴風」が荒れ狂ったが、竹富島とその周辺には時折爆撃機の機銃掃射が加えられたものの、米軍上陸という最悪の事態は避けられた。しかし、同年6月23日、沖縄守備隊は壊滅し、琉球列島全体が米軍の占領下に置かれることとなつた。「アメリカ世」 のはじまりである。
沖縄戦後の社会的変動は66年前の琉球処分後のそれを上回る規模の大変動であった。軍国主義から民主主義への価値観の大転換を強いられるなかで、竹富島では逸早く青年団が結成され、その機関紙「団報」において民主主義の解説と宣伝が始められたことは注目すべきであろう。
世界情勢に通じていた大石隊長らの影響もあったものと思われる。もっとも、多くの島民にとっては、食糧などの日常の生活手段の確保が先決間逝であった。台湾・南洋・沖縄本島・日本本土から、出稼ぎの島民や軍人・軍属などが続々と帰還し、竹富島の人口は戦前の2倍に膨れあがって2千名を超えるに至り、食糧を自給することは到底不可能となつていたからである。
区長をはじめ指導者たちは島民の食糧不足を解決するために東奔西走するとともに、旧思想と新思想の衝突、戦争中の残留者と戦後の帰還者の対立などに悩まされながらも、島民の融和を図る目的で随時に西塘祭を挙行したり、青少年の海洋への進出を促すために爬龍船競争を開催した。
戦後の混乱がようやく収まりはじめた1948年、竹富村は竹富町へ昇格し、初代の竹富町長に竹富島出身の与那国善三が当選して新たな一歩を踏み出すこととなる。この時、竹富町の戸数は1,746戸、人口は9,387人であった。
竹富島はその後も多くの人材を輩出することによって、竹富町の中心的役割を果たすだけでなく、西塘の「うつぐみ」の精神に支えられて「種子取祭」などの世界に誇る伝統文化を守り育て、長い困難な「アメリカ世」をくぐり抜けて、新たな飛躍の時代を迎えようとしている。いま一度、島のうつりかわり、島人の過去のあゆみを冷静にふりかえってみるべきときであろう。
(参考文献)
1 宮良高弘編『八重山の社会と文化』
2 八重山文化研究会編『八重山文化論集一・二』
3 山城善三等『竹富島誌』
4 西塘会『西塘伝』
5 西里喜行『論集・沖縄近代史
同「西塘考」(琉大数育学部紀要三二集)
6 牧野清『新人重山歴史』
7 『創立六〇周年記念誌たけとみ』
8 『上間広起生東百記念誌』
9 上勢頭亨『竹富島誌』(民話・民俗篇、歌謡・芸能篇)
10 崎山毅『蟷螂の斧』
島のうつりかわり (このページ)