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竹富島には数多くの御嶽があり、その御嶽の中でも、代表的な御嶽をムーヤマ(六山)と呼んでいる。この六つの御嶽には、それぞれカンツカサ(神司=神女)がおられて、それぞれの御嶽の神を祀っている。
現在は、ウーリャオン(玻座間御嶽)の富本貞子さん、クマーラオン(久間原御嶽)の与那国光子さん、ハナックオン(花城御嶽)の内盛正子さん、バイヤーオン(波利若御嶽)の新田初さん、コントゥオン(幸本御嶽)の請盛ユキさん、サージョン(仲筋御嶽)は島仲由美子さんが、カンツカサ(神司)として、それぞれの御嶽の祭事を預かっている。
聞き手 狩俣恵一
今回は、花城御嶽の神司である内盛正子さんを訪ねて、いろいろなお話をうかがった。
内盛正子さんは、現在、喜宝院の売店で観光客相手の土産物を販売しながら、神司を続けておられる。
聞き手 真下厚
平成12年9月7日収録
問 内盛さんがハナックオン(花城御嶽)のカンツカサ(神司)になられたのはいつですか。
答 昭和50年12月のナーッキヨイが終わった後、アッパ(婆さん…崎山苗さん)から引き継ぎました。ですから、昭和51年の正月行事から始めたことになります。六山の神司は、新暦の正月に、ムラオン(村御嶽)と呼ばれるフイナーオン(国仲御嶽)・マイノン(前の御嶽、清明御嶽)・ニシトーオン(西塘御嶽)を願い、旧暦の正月では、それぞれの御嶽を願います。
問 内盛さんは、竹富の学校を卒業後、東京に住んでいたと聞いていますが、どうして、竹富に帰って、神司になろうと思ったのですか。
答 はい。私は、東京で結婚して、子供もいましたし、保育園で保母として働いていました。しかし、昭和48年頃から、毎日が憂欝な日々でした。人の心というものは自分でも分からなくなるものです。私はその頃、「自分はガンで死ぬ」と思い込んでいました。そのきっかけは、父がガンで死んだためだと思いますが、とにかく、間もなく自分は死ぬんだと信じ込んでいました。お医者さんから、「あなたは何でもない、元気だ」と言われても、私はお医者さんが私にウソをついて、私を安心させようとしているのだと思い込んでいました。
それで、毎週のように病院に通って、お医者さんに「とにかく、本当のことを話して下さい」としつこく尋ねました。また、子供にも、「お母さんが死んだら、あんたどうするの」と尋ねたりしていました。私がいつもこんなことばかり聞くので、後では子供のほうから、「僕が死んだら、お母さんはどうするの」と、逆に聞かれたりもしました。とにかく、どういうわけか、憂欝な暗い日々を2年ほど、過ごしていましたね。
問 そのような憂鬱な日々から、解放されようということで、竹富に帰ったのですか。
答 いや、そうではありません。竹富に帰るなんてことはまだ考えていませんでした。昭和49年の4月のことだと思います。崎山のアッパの娘の与那国和子さんが上京してきました。そのとき、和子さんから電話があり、私に会いたいということで、上野の西郷さんの銅像の前で会いました。そのとき、和子さんは私に、「元気でしょう?」と尋ねましたが、私は「イヤ、元気でない」と答えました。和子さんは、「まあ、とにかく竹富に帰って来てごらん。崎山のアッパも、そう言っているよ」と笑顔で話しました。私は「そうだね」と答えました。
問 そのとき、竹富に帰って、神司を継ごうと決心したのですか。
答 いえ、そんなことは、まったく考えていませんでした。また、神司の話などまったくありませんでした。しかし、後から分かったことですが、崎山のアッパは、サンギンソウ(三世相=占い師)や物知り(=占い師)のところで占っていたらしく、私を後継ぎにしようと決めていたようです。それで、和子さんに頼んで、私の帰省を促したと思われます。それで、夏休みに竹富に帰りましたが、その日は偶然にも、明日は豊年祭という日でした。
問 帰ってから、崎山のアッパに、神司を継いで欲しいと言われたわけですか。
答 それも言われましたが、ただそう言っただけではありません。私は、石垣島で物知りのところに連れて行かれました。そしたら、その物知りは、「あなたは神に仕えるべき人間で、そうすれば幸せになれる。だから、仕えなさい」と言いました。それで私は、自分のこれまでの憂鬱で辛い日々を思うと同時に、そこから抜け出せるならば、島に帰って神司になるのもよいと思うようになりました。また、アッパをはじめ、みんなにも勧められて、神司になったというわけです。
問 神司の一番大事な仕事は、ニガイフチ(願い口=唱え言)を唱えることですが、どのようにして覚えたのですか。
答 崎山のアッパは、神様が教えてくれるので自然に覚えたと言っていましたが、私はアッパの唱えるニガイフチを紙に書いて覚えました。初めの頃は、ニガイフチを唱える順番を間違えないようにと、それぞれの詞旬の始まりの言葉の一字一字をマッチに小さく書いたこともありました。
問 神司は神様の言葉を聞くこともあると思いますが、どのようにして聞いていますか。
答 昔の神司はどうだったか知りませんが、私の場合は、神司とユタは違うと思っています。ですから、私には、直接神様の声が聞こえてくることはありません。しかし、自分が唱えたことを神様が聞き入れて下さったかどうか、また、自分の思っていることが正しいのかどうか、神様にお伺いすることはよくあります。
問 どのようにして、神様にお伺いするのですか。
答 お伺いするときは、供えたお米を一掴み取って、そのお米を2粒づつ除けます。最後が2粒だとムル(丸)と言って、神様からよろしいという知らせを受けたことになります。しかし、最後に1粒だけ残ったときはパン(半)と言って、その場合は神様は頷いていないということになります。
問 つまり、一掴みのお米が偶数ならば神様はOKですが、奇数ならばNoということですね。
答 例えば、こんなことがありました。四月大祭は、新暦の5月下旬に行うもので、順調に穂が出ることを祈る祭りです。ところが、その年の四月大祭は台風でした。それで、村はずれの花城御嶽で祈願をして、海辺のアイミシヤシ(東美崎)御嶽に行くのは、風が強いので止めようとしました。それで、私は「今日は台風なので、海辺のアイミシヤシ御嶽には行けません。アイミシャシ御嶽の祈願も、この花城御嶽でしますのでご了解下さい」と神様にお願いしました。そして、お米を一掴み取って、ムル(丸)か、パン(半)か、神様にお伺いを立てました。ところが、その答えは、パン(半)でした。2回、3回やっても、パン(半)でした。
問 お伺いするのは、1回だけでなく、何度もするのですか。
答 1回だけなら、偶然ということもありますから、何度かやって、続けて同じ答えが出たときに、神様の意志がわかるのです。
問 3回やっても、パン(半)ということですから、神様の気持ちはNOで、アイミシャシ御嶽まで行くようにということですね。
答 ええ、ですが、そのときは本当に風の強い日だったので、また、神様に祈願して、お伺いしました。しかし、やっばり、4回日、5回日もパン(半)でした。そこで、私は決心して、居合せたみんなに、「やっぱり、アイミシャシ御嶽に行かなければならない。行きましょう。きっと、浜辺には魚が打ち上げられているかも知れない。行けば褒美があるだろうから、行きましょう」と、言いました。
問 それで、海辺のアイミシャシ御嶽に、自動車で行ったのですね。
答 そうです。ところが、その頃から、風は止みつつありました。アイミシャシ御嶽では、ロウソクの灯が揺れないような静けさで、無事祈願を済ませました。
問 浜辺に魚は打ち上げられていなかったのですか。褒美はなかったのですか。
答 魚はいませんでしたが、戻る道で、大きな黒木が倒れて、道路を塞いでいました。
問 黒木とは、三味線を作る木ですね。ずいぶん高価な木ですね。
答 そうです。アイミシャシオン(東美崎御嶽)の黒木です。しかも、その木は、3分の2ほど、ノコギリで切られてありました。誰かが、あらかじめ3分の2ほど切っておいて、後で持ち去ろうとしていたのです。
問 これは大きなご褒美ですね。
答 それで、村に戻って、みんなでこの黒木を運んでもらいました。この黒木は、神様からいただいたものですから、それを売って神様のために使おうということになり、神様にもご報告しました。そんなことがありましたよ。
問 神様がパン(半)を出して、アイミシャシ御嶽に行くようにという指示を出したおかげですね。
答 このように、神様は、私たちに、ムル(丸)か、パン(半)で教えてくれます。しかし、ムル(丸)と、パン(半)が交互に出て、メチャクチャのときもあります。
問 それは、どうしてですか。
答 私も、どうしてなのか、さっぱり分からずに、悩んだこともあります。しかし、あるとき、「これは、いま答えを出すべきでない。時間が経てば自然と解決する。だから、メチャクチャになるんだ」という神様からのメツセージが耳ではなく、心に響いたことがあります。それ以来、そのように納得するようになりました。
問 なるほど、神様はすごいですね。よく分かりました。今日は長時間どうもありがとうございました。
問 私は平成10年、その春に刊行されたばかりの全国竹富島文化協会編『芸能の原風景』(瑞木書房)を手にし、すばらしい種子取祭の行事すべてを見学したいと強く思ったことでした。そして9月末に島をお訪ねし、毎日の行事を見学するなかで、5日目の神司の方々のウタキニガイのときに久間原御嶽の神司である與那國さんと初めてお会いし、神司になられたいきさつなどについて、御嶽まわりの道々に少しお聞きしたことでしたね。
答 そうでしたね。
問 神司は島の神行事の中心であり、島の伝統文化の柱となっておられる方だと思います。今回は、與那國さんから神司になられたいきさつやいままで務めてこられたお気持ちなどについて、お聞きしたいと思います。
では、早速ですが、與那國さんが神様を拝むようになられたことについてお聞きしたいと思います。與那國さんは小さいときはどのようでしたか。
答 小学校高学年から中学校3年間の間、よく耳が痛くなって石垣の病院に行ったのですが、病気じゃないんですね。那覇の病院にも行ったことがあるんですよ。島にいるときはずうっと耳が痛いのですが、島から出るともう痛くない。
そこで、そのころ神司だった石川明さんが、「これは神ごとに通じることで、この子は神の子だ」と言って。それで、たしか小学校5、6年のころにコンジンというものを立てて拝みをするようになったんです。ただ、子どもでしたので、どういう意味かよくわかりませんでしたが。
問 原因のわからない体の不調は、神をまつる人として選ばれたという、神様からの知らせなのでしょうね。コンジンを拝むことになられたというのは、宮古島地方のマウガン(守護神)をまつるという信仰と共通するもののように思われ、とても貴重なお話だと思います。ところで、そのころの生活はどのようでしたか。
答 私が生まれたのは昭和23年で、終戦後のものがない時代でした。電気も水道もなくて、井戸水を使う生活でした。私は小学校5年生のときから子守に出たのですが、ナージカー(仲筋井戸)から水を運んでお年寄りの家庭や床屋さんなどに売りあるいたりもしました。床屋さんは水をたくさん使うんですね。
月夜のよるには何十回も水を汲んで往復したこともあります。月夜は本当に明るいんです。そのころは学校の先生も島で生活しておられましたので、そこに水を運んでいってそろばんを教えてもらったこともありました。
中学生になっても、ひとり朝早く登校して、学校のいろいろな仕事の手伝いをしていました。朝、お茶をわかした後、授業の始まりの鐘を鳴らして教室に入り、休み時間は職員室の湯飲みを洗ったりしていました。卒業した後も学校の補助員として過ごし、先生方からはとてもよくかわいがってもらったという思い出がありますね。
問 年輩の方々にはなつかしい島の生活ですね。與那國さんは、体の不調など、つらいことも多かったのでしょうが、楽しい思い出もたくさん持っていらっしゃるのですね。それで、その後はどのようだったのですか。
答 その後、島を出て暮らし、また戻ってきた23才のときのこと。たまたまモノシリの方と出会って、その人が「あなたはよく感じる(神高い)人で、子年生れでしょう。双子の1人で、もう1人があなたのことを守ってくれているので、何でもうまくゆくでしょう。あなたが島に戻されたのも、久間原御嶽の神司になる人だからですよ」という話をされたんですね。私も、母がこの御嶽のスンヌツカサ(袖の司=2番司)でしたから、年とったらやらなくちゃいけないと感じてはいたのですが。
問 神高い方は、いろいろな機会に意昧づけされて、神様をまつる使命を自覚してゆかれるのですね。
答 それで、久間原御嶽のフンヌツカサ(本の司=1番司)は安里ヤエさんがなさった後、正式にそれを継ぐ人が出ないままでした。スンヌツカサ(袖の司=2番司)は、母の後を継いで姉がしばらく出ていましたが、あるとき周りの人々からすすめられてフンヌツカサ(本の司=1番司)の座る場所にあがって拝んだところ、神様から押さえられて・・・。それで、下りなさいということで下げられてしまって、その後16年間も神司が出ないままになっていました。
その間、私は、久間原御嶽の神司に出るべきだと人から聞かされ、うわさも広がっていたのですが、子どもはまだ小さいし、せめてこの子どもたちが大学に入るようになったら、島のため、人のため、八重山のため、みんなのために神を司るという決心をしようという気持ちを持っていたんです。
平成6年のある日、新田ハツさん(波利若御嶽神司)がモノシリから教えられ、私に言わなくちゃと思っているときに、神様が引き合わせたように、私も新田さんのところに髪の結い上げをお願いしに行ったんですよ。そして、ハツさんから「あんた、早くやらないとだめだよ」と言われたんです。それまで、神様にはいつも「子どもの道が開けるまで待ってください」と手を合わせてお願いしていたのですが、「あんた、もう待てないと言ってるよ」と言われて。そのときは「はい、はい」と聞いていて、神様はわかってくれるだろうと思っていたんです。
それから何回も言われ続けたのですが、「待ってください」と祈り続けていました。平成9年はいろいろなことがあって、良くない年でした。でも、そのときはそれが神様を待たせているからだとは気づかなかったんです。本当は子年の平成8年にやらなければならないのにやらなかったために、私に苦しみが来たんです。
それでも、そのとき私は踊りの師匠の補佐役をしていましたので、その責任もあるし、練習している踊りをこの年(平成9年)の種子取祭の最後の奉納芸能として踊らせてもらって、神様にお仕えしようと決心したんです。そして、グゥンァゲ(御恩上げ。なお、ブンァゲともいい、盆上げという意昧でも理解されている)をやるということで日を取ってもらって、9月27日に決まったんです。そうしたらその後で、子どもたちの道(進路)も開けたんですよ。
問 ああ、それはとてもよかったわけですね。やはり、神様に思いが通じたということなんですね。ところで、そのグゥンアゲという儀式はどんなことをなさるのですか。
答 それは、いままで與那國光子として生きてきたことへの感謝の礼ですね。御嶽々々の神様と井戸、それから実家や現在の家をまわって、いままでのお礼をする儀式なんです。
問 そうすると、それは、俗人として生きてこられたことについて、神様に感謝なさるという儀礼、ということなんですね。それで、その次にはどんなことをなさったのですか。
答 この後、11月10日にはカンビラキ(神開き)ということで、與那國光子は久間原御嶽の神司としてお務めしますという挨拶の儀式なんですね。御嶽々々をまわって、最後に自分の御嶽で初めて白い神衣装を着るんです。そして、実家で報告をし、また家では久間原御嶽の香炉を据えるのです。
問 11月の10日というと、島ではポインセチアの花がきれいに咲くころですね。そのカンビラキという儀式は與那國さんが神司として新たに誕生されたという儀式だということなのですね。
答 はい、そうです。
問 そのころ、何か夢をごらんになるようなこともあったのですか。
答 ええ、夢もありました。グゥンアゲをすませてそのカンビラキをする前のことです。こんな年になってね、お産を一生懸命しようとしているんですよ。分娩室に入っているのかどうかわからないんですが、子どもが生まれそうなんですよ。で、ぱっと目をさますと、夢なんですよ。その話を新田さんに伝えたら、産んで生まれる、つまり神司として生まれるということを見せた、っていうんです。私はあまり夢は見ないのですが、見ると正夢でよく当たるんです。身体に異常が出たりしたこともあって、やっぱりやらないといけないと悟ったんです。
問 やはり、そのような神様からのお知らせがあるものなんですね。この夢はこんな意昧なのでしょうね。つまり、神様にお仕えすることは神様と結婚することであり、またそこで生まれる神の子が神司としての自分自身でもあるというような・・・。神に仕える女性たちは昔からこのような不思議な夢を見てきました。ところで、以前、お母さんもこうした特別な夢をごらんになる力を持っておられたとお聞きしましたが。
答 ええ。母がよそから頼まれて実家のザーでお祈りをすると、しばらく眠らされるんですね。すると、その間に夢を見て、そしてそれで判断するんですよ。母は、私の息子が受験したときも、夢を見て、その結果をあらかじめ教えてくれました。
問 夢で占いをなさるというのは、古典文学の世界に平安時代の貴族の女性たちが大和の国(奈良県)の長谷寺や近江の国(滋賀県)の石山寺の観音様の前にこもって霊夢を授かるという話があるのですが、そのようなことを思わせる興昧深い、これも不思議なできことですね。さて、そのカンビラキの儀式を終えられて、どんなお気持ちだったですか。
答 そうですね。神衣装を着けたときに、なんていうんでしょうか、別に怖くはなくて。うれしい気持ちと、何か神様に迎えられたような、そんな気持ちですね。自分が自分でないような感じで・・・。
問 こうした儀式を終えられて、神司としてお立ちになるということを私などが考えますと、不安と責任の重さがあるのかと思うのですが、そのようなことはどうなのでしょうか。
答 いや、そうじゃなくてね。神様がいろんなことを教えてくれる、という気持ちだったんですね。そして、それまではたくさんの人の前で方言で挨拶することはできなかったのですが、神司になってからは方言で挨拶することもできるようになって。何か、神様の力がもらえているような気持ちですね。だから、不安や責任の重さというのでなく、カンビラキのときに神衣装を着けているときには、ことばでは言い表せない、迎えられているという気持ち、そして神司が生まれたということで島じゅうのみんなが喜んでくださっている、という思いだけなんですね。その大変さを感じたのはこの後からなんですよ。
問 そうなんですか。とても興昧深いお話なのですが、続きは次の号にお願いしましょう。
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