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ふるさと竹富の素顔

石垣市 大山正夫
「星砂の島」第5号掲載

港の移り変わり


昭和30年代の竹富港

昭和30年代の竹富港

 西塘は大永4年(1524年)に、琉球国王から竹富大首里大屋子(八重山の統治者)に任じられ、郷里竹富島のカイジ原に蔵元(行政庁)を置いた。八重山出身者によるはじめての八重山全島の統治であった。
 カイジの港は、八重山の中心港となり、年貢はカイジ港から琉球王府に運ばれたという。しかしながら、カイジ港の繁栄は長くは続かなかった。竹富は土地が狭い上に交通が不便という理由で、蔵元(行政庁)は天文21年(1543年)に石垣島へ移転されたからである。
 それに伴って、竹富島の年貢は石垣島を経由して沖縄本島へと運ばれることになるが、そのときにカイジの港も廃され、ミシャシ(美崎)のガンギー(石の桟橋)を利用することになった。以後、ガンギーは、大正末期まで島の主要港として機能した。

 大正天皇と皇后陛下の御真影は、大正6年の12月に、このガンギーから奉迎された。また、明治36年から大正末期までの出征軍人の送迎も、このガンギーで行われたのであった。
 明治36年と言えば、日露戦争開戦の前年である。竹富島から日露戦争へ出征した兵士として、細原千明、古見多那などの名前が知られているが、なかでも古見多那はラッパ手であったという。

 ところで、竹富島の海上交通はいわゆる伝馬船と呼ばれるものであったが、大正14年に発動機船に変わった。発動機を載せた「富島丸」の運航開始は、海上交通の一大革命であり、人々は歓喜に満ち溢れていた。
 発動機船の登場は、島の産業である農産物の増大に伴うものであった。従って、ガンギー(石の桟橋)は手狭となり、昭和のはじめに港は竿原(現在の港から700メートルほど東の地)に移された。昭和天皇と皇后陛下の御真影は、昭和3年10月に竿原の港から新装なった竿原道路を通って奉迎されたのである。それから5年後の昭和8年、大舛桟橋(現在の竹富港)が完成した。昭和10年頃の竹富と石垣間の運航時間は約45分であった。

 はじめて発動機船に乗船したときの感激は今でも忘れられない。航行中に他船を追い越したときの痛快さは、子供心にも何とも言えない感動と喜びであった。しかし、エンジンの故障で、一時の漂流を余儀なくされることもあった。朝、竹富島を出航した直後にエンジンの故障、暫くして始動したが石垣島を前にしてまたも故障。しかも、船の後方には豚を載せていたので、豚の強烈な匂いが船酔い以上の豚酔いにさせた。乗客の顔は真っ青で、ゲーゲーと吐く始末であったが、何とか石垣島にたどり着いた。

 夕方になると、石垣島から竹富島へと帰還したが、生憎午後は強風に変わっていた。発動機船の威力で、石垣の桟橋を出て、竹富の桟橋の手前までは来たが、そこからがたいへんであった。風が強いために桟橋に近づけない。ロープが届けば、それを手繰り寄せて桟橋に船を横づけできるのだが、ロープを投げても、桟橋に届かない距離である。
 そこで、乗客であった泳ぎの達人安里亨さんの出番となった。亨さんは特攻精神で、荒波の中にザブンと飛び込んだ。船のロープを口に銜えた亨さんが、スイスイと泳いで桟橋に上がると、乗客からは歓声と拍手が湧き起こった。おかげで、船は桟橋に横づけされて、乗客全員がぶじに上陸できた。
 そして、安里亨さんの勇気と行動力は高く評価され、一躍竹富島の英雄として知られるようになった。思い出の多い竹富の港である。

 

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