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「しきた盆」のせかい


随筆家 岡部伊都子
「星砂の島」創刊号より

 

初めて竹富島を訪れたのは、一九六八年の四月ですから、何と、もう満二十八年の昔になってしまいました。
それまで島という言葉で連想する島は、山型でした。「しきた盆」その、平面のお盆のような、そしてすべてが繊細な美しさでかがやいている島とお近づきになるとは、想像したこともない成行きでした。
船着き場から人家の見えてくる集落までの道の、静かだったこと、清らかだったこと。緑したたる林、咲きこぼれている花、蝶や鳥や風。
青緑に透き通っている海を渡って、澄みきった空気を吸って、白い珊瑚砂の道を歩くのは、すでに汚濁に苦しんでいる土地からの旅人として、まるで夢の中を歩いているようでした。
鶏の声、豚の声、山羊の声、牛の声。
「まア・・」とよろこぶと、島の人びとは、「なぜそんなことを今更言うのか」と、きょとんとなさっていました。当たり前のことじゃないか。これがずうっと繰りかえされている日常のことなのだよと。
こういう島から、皆出ていっておしまいになる。それはもったいないなあ。こんな島がふるさとであるお人は、羨ましいなあ。ことこと歩きながら、初めて来た島なのに、「帰ってきたい土地」という思いにかられていました。
あの頃は、道も今よりも狭かったし、石垣も草かずらをひいた古い趣きがありました。赤瓦の民家の中には、くずれかかった廃屋も散見され、余韻を曳く雰囲気でした。
道を歩いていると、次々と機の音がきこえてきて、家族の留守をまもるお独り住まいのおばあちゃまたちが、胸をはって、きちんと仕事をしていらっしゃいました。「お独りで・・」と心配すると、「機があるから、さびしくないよ」って。そして、じつに立派な織り物が生まれてくるんです。人生を織るというか、歴史を織るというか、魂を織るというべきでしょうか。
たしかに、胸いたむ人頭税の不幸は、長く八重山の島々を苦しめてきました。この、最初の蔵元(くらもと)が置かれた竹富島は、他島とはすこし事情がちがっていたようですが、やはり税のために海を渡って田作りし、税のために織り、自然の中から直接の糧と、手仕事の材料とを得て、努力しつづけ働きつづけてこられました。
浜辺から砂を運んで民家の庭や、家並みの道にしくといった感覚は、どこから来たのでしょうか、どんなに強い雨が降っても、さあっと水がひいていました。
それに、「ハブがいるから白い砂をひいておくと、それがすぐわかっていいんだよ。月夜なんか、月光に砂が白く反射して、夜でもよくわかるしね」とも。
同じような一番座二番座をもつお家の造り、あの種子取祭(たねどりさい)の夜、巻唄(マキウタ)をうたいながら一軒一軒の屋敷内にはいって踊るたのしさに、胸がいっぱいでした。こんな親しい祭り、民家を祝福してまわる互いのよろこびを、わたくしはそれまで知りませんでしたから。
当時いただいたり、求めることができたりした物は、ていねいな仕事に土着の誇りがこもっていました。花染(ハナズミ)は誰、ミンサーは誰、アンクは誰などと、特にすぐれた作り手は、皆の誇りとして紹介されたものです。
自家栽培の野菜、海へ舟をだして魚をとり、海藻や貝をたっぷりと使った新鮮な食前に、「現金収入のある都会生活だといわれるけれど、その都会で、こんなに安心な新しい食べものをたっぷり食べるなんて、とてもできない。いったいいくらつくかわからない」と、ため息をついたのです。

種子取祭の夜のユークイ
種子取祭の夜のユークイ

 

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