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A1 ユームチ(世持)とは、琉球王府時代の村の責任者のことで、竹富島では玻座間村と仲筋村にそれぞれユームチ(世持)がいました。その時代は、士族と平民に分かれていましたが、ユームチは平民から選ばれたもので、さしずめ今の区長というところです。
ユームチは、農事や村行事などの諸行事をとり仕切るとともに、オーセ(村番所)に出向いて、士族と平民たちとの仲介役をすることもありましたが、もっとも重要な仕事は、村人全員が人頭税をとどこおりなく納められるよう指導することでした。そのようなユームチたちのご苦労を称えて祀ったのが「世持御嶽」です。
【玉城憲文】
A2 世持御嶽は、世持神(農耕の神のこと)と火の神をまつる御嶽で、昭和2年に竹富村の村役場の敷地内に建てられましたが、昭和5年に現在の場所に移されました。
火の神には、竈の神として各家庭でまつるものと、琉球国王を太陽の子孫と見なしてまつる太陽神がありますが、琉球王府時代のオーセ(村番所)では、士族たちが、太陽神としての火の神をまつっていました。また、オーセ(村番所)には、ハンタヌマイ(拝板の前)というのもありました。
琉球王府時代の竹富島における農耕儀礼は、士族たちの信仰する火の神とハンタヌマイ(拝板の前)の二神の前で行われていましたが、明治30年の蔵元・村番所の廃止と同時に士族たちもなくなりました。それで、火の神もハンタヌマイも時代にそぐわないということで、明治41年に火の神は清明御嶽(マイノンとも言う)に移され、ハンタ(拝板)は焼却されました。
その結果、種子取祭は清明御嶽で行うことになったのですが、その後いろいろなことがあって、カンツカサ(神司)たちから、火の神を元の場所に移し、ハンタヌマイを復活するようにとの意見が出されました。そのとき、火の神は元の場所に移されましたが、ハンタヌマイは復活せず、それに代わるものとして、新たに「世持神」という農耕の神を作ってまつったということです。
上勢頭亨さんによると、ハンタヌマイを再起せよというカンツカサ(神司)の主張に対し、頑強に反対したのが上間広起村長であり、世持御嶽を創建し、世持御嶽と命名したのも、上間村長であったとのことです。
それ以降、種子取祭は竹富島の最大の行事となりましたが、その種子取祭のとき、世持御嶽で供える料理は3組です。1組は世持神への供物、もう1組は火の神への供物、そして、最後の1組は、当日世持御嶽に招かれたヤーヤマ(玻座間・仲筋・幸本・久間原・花城・波利若・国仲・清明の各御嶽)の神々への供物となっています。
【阿佐伊孫良】
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