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島のうつりかわり

琉球大学教授 西里喜行
「星砂の島」第1号、第2号掲載

新里村遺跡とその周辺


 石垣島の真正面に「しきた盆」のように浮かぶ竹富島に、人間の集団が定住して歴史を織り成すようになったのはいつ頃のことか。いまのところはっきりとは解らない。
 けれども、私たちの竹富島には多くの神口(かんふつ)(祝詞)が伝承され、島の歴史の始まりを想像することのできる材料が残されている。また、最近、竹富島の一周線道路建設の途中で、伝承としてしか知られていなかった新里遺跡が発見されたり、カイジ浜貝塚が発掘されている。
 このような遺跡や神口(祝詞)によって、島の歴史がいつどのようにして始まったかを考えてみよう。

 竹富島最古の遺跡とされるカイジ浜貝塚の最下層からは、多量のシャコ貝やタカセ貝などの貝殻が発見されている。この貝塚は、11世紀から12世紀にかけて生活した人々の塵捨場であると考えられている。従って、竹富島に最初に定住した人々はシャコ貝やタカセ貝を主な食糧とし、海産物の採集を中心とする漁労生活を営んでいたことが想像される。

 カイジ浜貝塚よりは後の時代に属する「新里村遺跡」は2つの村落跡をふくみ、ハナックンガー(花城井戸)をはさんで、東側の集落遺跡は12世紀から13世紀にかけてのもの、西側の集落遺跡は14世紀のものとみなされている。
 前者からは堀立柱の建物一棟、玉縁の白磁椀、須恵器の壷、ユニークな新里村式土器などが発掘され、後者からは石垣囲いの屋敷跡(12〜13戸)、中国製陶磁器(青磁椀、白磁椀)、八重山式土器、鉄鍋、鉄製のヘラ、小刀、貝さじなどが出土している。

 新里村に居住している人々はすでに農業を中心とする生活に入っていたものと思われるが、時代の異なる東西2つの集落跡はどのような関係にあったのか、遺跡だけではよく解らない。
 なお、花城タカシルや牛岡などは15世紀から16世紀にかけての集落跡で、この時代には竹富島の内部にも政治的社会への胎動が始まっていたことを暗示しているといえよう。

注 牛岡(ンブフル)は倭寇の住居跡だという説もある。

 

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