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「大和」化の牽引者であった上間広起が竹富島の将来を案じつつ死去したのは、日米開戦の翌年(1942年)のことである。初戦の華々しい戦果が宣伝されたのも束の間、日本敗戦の色は次第に濃くなり、竹富島にも重苦しい戦雲が漂いはじめた。
1944(昭和19)年、南西諸島に沖縄守備のための第三十二軍が組織され、竹富島にも大石喬を隊長とする大石隊は米英軍の上陸を迎え討つために陣地構築などの準備を進め、新裕吉区長は大石隊への食糧・家畜の供出、軍労務者の徴発などに奔走し、島民の一部は万一に備えて西表島へ疎開させられた。
大石隊長の冷静な情勢判断と駐留兵士の間で規律がある程度保持されていたことによって、大石隊と島民の関係は比較的良好で、多くの島民はあらゆる方法で大石隊へ協力した。
1945(昭和20)年3月末から6月末へかけて、沖縄本島では米軍の艦砲射撃にはじまる「鉄の暴風」が荒れ狂ったが、竹富島とその周辺には時折爆撃機の機銃掃射が加えられたものの、米軍上陸という最悪の事態は避けられた。しかし、同年6月23日、沖縄守備隊は壊滅し、琉球列島全体が米軍の占領下に置かれることとなつた。「アメリカ世」 のはじまりである。
沖縄戦後の社会的変動は66年前の琉球処分後のそれを上回る規模の大変動であった。軍国主義から民主主義への価値観の大転換を強いられるなかで、竹富島では逸早く青年団が結成され、その機関紙「団報」において民主主義の解説と宣伝が始められたことは注目すべきであろう。
世界情勢に通じていた大石隊長らの影響もあったものと思われる。もっとも、多くの島民にとっては、食糧などの日常の生活手段の確保が先決間逝であった。台湾・南洋・沖縄本島・日本本土から、出稼ぎの島民や軍人・軍属などが続々と帰還し、竹富島の人口は戦前の2倍に膨れあがって2千名を超えるに至り、食糧を自給することは到底不可能となつていたからである。
区長をはじめ指導者たちは島民の食糧不足を解決するために東奔西走するとともに、旧思想と新思想の衝突、戦争中の残留者と戦後の帰還者の対立などに悩まされながらも、島民の融和を図る目的で随時に西塘祭を挙行したり、青少年の海洋への進出を促すために爬龍船競争を開催した。
戦後の混乱がようやく収まりはじめた1948年、竹富村は竹富町へ昇格し、初代の竹富町長に竹富島出身の与那国善三が当選して新たな一歩を踏み出すこととなる。この時、竹富町の戸数は1,746戸、人口は9,387人であった。
竹富島はその後も多くの人材を輩出することによって、竹富町の中心的役割を果たすだけでなく、西塘の「うつぐみ」の精神に支えられて「種子取祭」などの世界に誇る伝統文化を守り育て、長い困難な「アメリカ世」をくぐり抜けて、新たな飛躍の時代を迎えようとしている。いま一度、島のうつりかわり、島人の過去のあゆみを冷静にふりかえってみるべきときであろう。