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琉球処分から沖縄戦に至る「大和世」の時代に、竹富島は人頭税が廃止されたことによって政治・経済の面で大きく変化しただけでなく、社会・教育・文化の面でも著しい変化を蒙った。
1892年(明治25)年6月25日、大川尋常小学枚竹富分教場が発足し、竹富島にはじめて学校が開設されたことは、その後の竹富の発展に重要な意義をもつ出来事であった。士族や役人以外の一般農民の子弟にも教育を受ける機会が到来したからである。
この竹富分教場に6歳で入学した上間広起は、4年間の学業を修了した第1期卒業生 (10名)の1人であった。
その後さらに上間は内盛真津らとともに八重山高等小学校へ進学、石垣島で寄宿生活をしながら学業を積み、5年後のい1902(明治35)年に卒業して竹富島へ帰るや、母枚の代用教員を拝命する。
この時、上間はすでに2年前に代用教員となつていた内盛らとともに矯風会を組線して風俗改良運動をはじめた。
小さな竹富島の内部でも、上間や内盛らを中心とする若い世代の聞から、強力な「大和」化=「文明」化の波が湧き起こりはじめたのである。
「大和」化の風潮は日露戦争を経て一層強力に准し進められた。1906(明治39)年には竹富分教場も独立して竹富尋常小学杖となり、児童数も186名に達して「大和」化のセンターとなつた。
上間は日露戦争後の朝鮮において兵役に服し、下士官として認定される。竹富島の人々から「大和世」の象徴とみなされた上間は、竹富村が直生した1914(大正3)年、竹富村雇として採用されるとともに、在郷軍人会竹富分会副長を委嘱された。その後、上岡は竹富村書記、村会議員、村長などを歴任する傍ら、竹富同志会を組緑して常にリーダーシップを発揮しつつ後進を薫陶した。
上間の薫陶を受けて上級学枚へ進学したのは、与那国善三、崎山毅、細原徹、前新加太郎、前新雄三らであり、彼らもやがて教育界・医学界などで活躍するようになる。また、大山真整、入仲本真要、富本勉、新裕吉、玉盛淳博、野原安雄、上勢頭亭なども上間の直接の指導を受けた人々で、後に島の指導者として活躍した。