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島津の琉球侵入から270年後に、琉球王国は名実共に消滅した。この間、琉球王国は日清両国に従属しながらも、19世紀の後半には欧米各国とも条約を締結し、名目上一つの独立国として認知されてきたが、1879年3月、明治政府は突然琉球王国を廃止して沖縄県を設置したのである。この措置は1871年の全国的な廃藩置県に準ずるものであるが、琉球の意思を無視して明治政府の軍事的威嚇のもとに一方的に断行されたことから、琉球処分とも移される。
琉球処分の波はたちまち八重山へも波及した。八重山処分官として来島した沖縄県属の渡辺簡は、廃藩置県についての明治政府の命令を伝達し、首里王府から派遣される在番の制度を廃止したが、蔵元をはじめとする従来の行政機構はそのまま温存した。従って、竹富島の玻座真与人もそのまま据え置かれることとなる。
しかし、翌1880年には蔵元以下の行政機構を監督するために蔵元の構内に八重山島役所が開設され、82年には役所内に郵便局設置、83年大川村に小学枚新築、84年甘藷栽培の開始、85年西表炭坑の採掘開始など、次々に新しい時代の到来を象徴する事物が現れた。
もっとも、明治政府は廃藩置県後も長期にわたって旧慣温存政策を採り続けたから、八重山の人頭税もそのまま温存され、人々は相変わらず人頭税の重圧とマラリアに苦しめられ続けることとなる。
この間、琉球処分に反対する士族たちの抵抗も続いた。清国政府も琉球処分に反対して明治政府に抗議した。日清両国は琉球問題を解決するために外交交渉を繰り返し、1880年10月21日遂に琉球分割条約を締結した。この条約では、沖縄本島以北を日本領土とし、宮古・八重山を清国に割譲することが取り決められ、10日後に調印することも約束された。
しかし、清国に亡命していた琉球人たちがこの条約に激しく反対し、清国当局に調印しないよう必死の嘆願を繰り返したので、清国政府も遂に調印を見送り、琉球分割条約は廃案となつた。八重山は危うく清国へ割譲されることを免れたわけである。もし清国がこの条約に調印していたら、竹富島の人々の運命も大きく変わっていたことであろう。