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1771(明和8)年4月24日、石垣島の東南海域でマグニチュード7.4規模の大地震が起こり、それにともなう大津波が宮古・八重山諸島に押し寄せ、人命・財産に甚大な損害を与えた。この 「明和の大津波」 は震源地から西北方へ激しく押し寄せたが、石垣島から竹富島の東方海上にのびる厚い珊瑚礁の帯によって大きくブレーキをかけられた。
その結果、黒島と新城島は完全に波に呑まれて498名の死亡者を出したが、竹富島は平坦な小島であるにもかかわらず、島の一部だけが波を被っただけで、流出家屋もなく死亡者も一人も出ないという奇跡的な現象をもたらした。もっとも、公務で石垣島へ出張中の竹富出身者27名は津波の犠牲となっている。
大津波前の八重山の人口は28,896人であつたが、大津波によって、一挙に9,313人の死亡者を出して19,583人に減少し、以後年々減少の一途をたどり、百年後の明治の初期には1万1千人台まで落ち込んだ。
津波による耕地の流出、塩害による農業生産の激減、疫病(マラリア)の蔓延などに加えて、人頭税の負担、マラリア地帯への寄人政策(強制移住)などの人災もまた、人口減少の原因となつたことは言うまでもない。大津波の直後、竹富島から富崎へ強制移住させられた523名の人々は、さらに転々と移住地を代えさせられ、惨憺たる苦労を重ねたという。
他方、竹富島に留まった人々は、200年以上にわたる人頭税の重圧にもかかわらず、西塘の 「うつぐみの精神」を受け解いで島の伝統的な祭りを守り続け、多くの民謡を謡い縦ぎ、貢租を完納して村落共同体を維持するために営々と労働に励んだ。
やがて19世紀に入ると、疲弊した村落の振興のために率先して指導に当たる人物も現れ、1821年には大山筑登之親雲上が、1841年には与那国仁屋が村興しの功労により爵位を授けられている。