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首里王府や薩摩藩が八重山に在番を置いたのは主として税収の確保とキリシタンや異国船の取り締まりのためであった。島津軍の琉球侵入後2年目に実施された検地によって、八重山の石高は5980石余と計算され、それにもとづいて貢租が決定された。
その後、1637(寛永14)年に宮古・八重山には貢租を人頭割に賦課・徴収する「人頭税」が実施される。それから20余年の間に、4回の人口調査が実施され、そのたび貢訴額も変動したが、1659(万治2)年の人口調査にもとづいて定額人頭税となった。
人頭税の実施によって、15歳から50歳までの男女は役人や身障者以外すべて貢租の負担者となり、貢租としての米や布を納めるために朝早くから夜遅くまで働かなければならなくなった。稲作の不可能な竹富島の人々は、わざわざ西表島まで出張して稲作に従事せざるを得ず、反布の生産を担当した女性たちは村番所に付設された薄暗いあばら家で、3ヶ月間禁足状態に置かれ、役人の厳しい監督を受けながら織り立てに励んだ。
竹富島などの各離島や村々には微税の監督などに当たる役人として、与人・目差・耕作筆者・杣山筆者が配置された外、蔵元の行政機構も整備され、在番・頭の補佐官として大目差・大筆者・脇目差・脇筆者が置かれた。竹富島には1658年に与人(村長)、1660年には目差(助役) が置かれたが、1694年に竹富与人は玻座真与人と改称され、1729年には竹富目差も玻座真目差と改称された.島々に配置された役人たちは、島の娘たちを賄い女(家政婦)に指定したりして無理難題を押し付けることも少なくなかった。
人頭税の重圧に堪えられず、波照間島などでは村ごと集団逃亡したという伝説も伝えられているが、ほとんどの島々や村々では労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額は累積するばかりであった。
そこで、首里王府は在番を通じて監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を堆進した。いわゆる寄人政策である。この寄人政策は人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地や過疎地域へ強制移住させて開墾に当たらせる政策である。竹富島の人口は1737年に1071人に達し、人口過剰の島とみなされていたので強制移住の対象となつた。
たとえば、1711年には伊原間へ、1734年には74名が屋良部村へ、1738年には150名が椁海村へ、さらに1753年には200名が安良村へ、1771年の明和の大津波の直後523名が富崎へ強制移住させられ、後に盛山へ再移住させられた。
「生リヤ竹富 育ティヤ仲間ヌ マザカイ」という文句ではじまる「マザカイ節」は、竹富島で生まれたマザカイという男とその恋人が寄人政策によって竹富と西表に引き裂かれた悲劇を詠った民謡として知られている。寄人政策は親子・兄弟・夫婦・恋人たちを引き裂いたばかりでなく、移住地がマラリア地帯であったために、明和の大津波とともに八重山の人口減少の最大の原因となった。