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首里王府の遠征軍が八重山のオヤケアカハチを制圧してから109年後の1609年、今度は薩摩の島津軍が琉球へ侵入し、尚寧を捕虜として薩摩へ連行した。豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98)の頃から薩摩と琉球の関係は緊張していたが、徳川幕府が成立した後、薩摩の島津氏は幕府の承認を得て琉球を征服するに至ったのである。
島津氏は奄美諸島を割譲させて直接支配のもとに置いたものの、琉球王国を存続させて一定の年貢を取り立てるとともに、中国貿易の窓口として利用した。従って、島津軍の琉球侵入以後、琉球王国は実質的に薩摩藩の植民地となり、幕藩制の日本に従属するとともに、他方では依然として中国(明・清)との進貢貿易をも続けることになる。
八重山はすでに百年以上も前から琉球王国の植民地のような位置に置かれていたが、島津軍の琉球侵入以後にはさらに薩摩藩の支配が加わり、二重の従属を強いられる。1628(寛永5)年、八重山の25ケ村を3間切(大浜・石垣・宮良) に区分し、各間切に頭を置いて三頭会義で行政に当たらせることにしたが、1632(寛永9)年には、首里王府の出先機関として在番奉行が置かれ、八重山の行政を監督したが、さらに1641(寛永18)年には薩摩藩も直接八重山へ在番を派遣し、大和在番制度が始まった。