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島のうつりかわり

琉球大学教授 西里喜行
「星砂の島」第1号、第2号掲載

首里における西塘の活躍

郷里を離れて異郷へ赴くことは並み大抵のことではない時代であつたから、西塘は自ら首里行きを希望したわけではないであろう。竹富島の家族や同族集団から引き離され、未知の環境に投げ込まれた西塘は、人生の最大の試練に直面したといえる。
 首里滞在の当初は言葉や風俗習慣の違いにも悩まされたことであろう。しかし、逆境は西塘を鍛え、大きく成長させた。西塘は持ち前の才能と忍耐力と勤勉努力によって、さまざまのハンディキャップを克服し、首里の先進文化を一つ一つ習得する。

 当時の首里城には、尚真王が君臨し、北は奄美群島から南は先島諸島に至るまで琉球列島全体を統一するとともに、国内の諸制度を整備して独自の古代国家を完成しつつあつた。海外貿易からもたらされる富の蓄積を背景に、さまざまの文化事業も推進された。首里城を中心とする首都の町並みは、竹富島のような田舎育ちの西塘には別世界のように見えたことであろう。西塘は首里の先進文化を習得しながら、やがて石工技術者として才能を発揮し、その名を知られるようになる。

 首里生活19年目の1519年に、園比屋武御嶽(そのひやんうたき)と弁カ嶽の石門を建造するよう命じられた西塘は、石門の建造に当たって、園比屋武御嶽の神に願を掛け、無事石門を建造して帰郷することができたら、郷里の竹富島に勧請して祭ることを誓った。まもなく園比屋武御嶽と弁カ嶽に、最新式の技術を取り入れた中国風アーチ型の立派な石門が完成し、石工技術者としての西塘の名声は高まった。この時、西塘は帰郷を願い出た。
 1524年(尚真王48年)、西塘はこの間の忠勤と園比屋武御嶽などの建造の功績により、首里王府から竹富大首里大屋子(頭職)を授けられ、帰郷を許されることとなる。

 (注) 従来の通説は西塘が帰郷した年を、『球陽』の尚真王48年の条の記事にもとづいて1524年としているが、記事の内容を注意深く読めば、必ずしもこの年に帰郷したとは解釈できない。『球陽』以外の諸史料はすべて西塘が「数十年間」首里に滞在したことを記録し、1524年に帰郷したとはどこにも書いていない。
 西塘が「数十年間」首里に滞在したとすれば、園比屋武御嶽石門の建造から25年後の1544年に始まって1546年に完了した首里城の城壁拡張工事に、西塘も参加した可能性が高くなる。竹富島では首里城城壁を屏風式に建造したのも西塘であると伝承されているのであるから、西塘が帰郷したのは城壁拡張工事の後、つまり1546年以後のことと考えるべきであろう。とすれば、園比屋武御嶽石門の建造 (1519年)の後もなお長期にわたつて、西塘は帰郷を認められなかったことになる。
 その理由は、八重山ではまだ首里王府への抵抗が根強く続いており、首里王府の役人たちは宮古・八重山の人間をまだ信用しきれなかったからであろう。しかし、城壁拡張工事が完了した頃には首里王府も、八重山出身者を登用する方が政治的安定にプラスになると判断し、西塘に竹富大首里大屋子の職を与えて帰郷させるとともに、首里から八重山統治のために派潰されていた満挽与人(マンピキユンチュ)を引き上げることにしたものと思われる。

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