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島のうつりかわり

琉球大学教授 西里喜行
「星砂の島」第1号、第2号掲載

首里王府八重山併合前後

 竹富島の6人の英雄たちが活躍した時代は、琉球列島全体が首里王府のもとに統一されていく時代と重なり合っている。宮古・八重山が首里王府に入貢したのは1390年のことであるが、15世紀の末までは首里王府の直接の支配を受けていたわけではなく、各々独自の政治社会を形成しつつあつた。15世紀の後半には、宮古を統一した仲宗根豊見親がその勢力を八重山まで拡大しようとしていた。

 その頃八重山では、石垣島北部の平久保加那按司、同島西部の仲間満慶、同島南部の長田大、同島東部のオヤケアカハチ、西表島の慶来慶田城用緒、与那国島のサンアイイソバ、波照間島の明宇底シシカドゥンなどの群雄が割拠して統一の主導権を争っていた。そのうち、もっとも有力であったのは、波照間島出身で石垣島東部を根拠地とするオヤケアカハチであつたが、竹富島もその影響下にあつたことを暗示する伝説がある(波照間屋敷伝説)。
 しかし、15〜16世紀に活躍した前掲の八重山の群雄たちと、竹富島の歴史の黎明期に登場する6人の英雄たちとの間に、なんらかの関係があったかどうかは解らない。竹富島の6人の英雄たちは15世紀以前に活躍したと考えられているから、直接の関係はなかつたと思われる。

 西塘(にしとう)が生まれたのは八重山群雄割拠の時代、オヤケアカハチが八重山統一を目指しつつあった時代である。首里王府への入貢を拒んだオヤケアカハチを制圧するために、1500年首里軍と宮古軍の連合艦隊が大挙して八重山へ押し寄せた。この時、竹富島の人々はソールあたりの浜で「軍船・人喰い船」が北方に姿を現すのを見て、びっくりして逃げ回つたという伝説がある(「アーパー石のユングトウ」)。
 すでに10代の中頃に達していたと思われる西塘は、オヤケアカハチの軍勢に身を投じて首里・宮古の連合軍と戦ったのか、あるいは竹富島の人々とともに逃げ回つたのか、それとも首里・宮古の連合軍に協力したのか、よく解らない。いずれにせよ、圧倒的な遠征軍の攻勢を受けて、オヤケアカハチの軍勢が敗退するや、西塘もまた遠征軍に 「召し取られ」、首里へ連行されることとなる。

 首里王府編纂の『球陽』によれば、西塘は「賦性俊秀にして器量非凡」で、抜群の才能をもっていたので、遠征軍の総大将大里は西塘を「帯して」首里へ帰り、三司官(首里王府の最高の役人)の家に「供奉」(奉公)させたと記録している。
また、伝承によれば、竹富島へ上陸した首里軍の総大将大里が部落を通過する際に、樹上で遊んでいた西塘と問答してその見事な応対ぶりに感心し、首里で教育するために連行したともいわれる。

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