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神司に聞く

 

久間原御嶽の與那國光子さん

 聞き手 真下厚
「星砂の島」第5号より

 

 私は平成10年、その春に刊行されたばかりの全国竹富島文化協会編『芸能の原風景』(瑞木書房)を手にし、すばらしい種子取祭の行事すべてを見学したいと強く思ったことでした。そして9月末に島をお訪ねし、毎日の行事を見学するなかで、5日目の神司の方々のウタキニガイのときに久間原御嶽の神司である與那國さんと初めてお会いし、神司になられたいきさつなどについて、御嶽まわりの道々に少しお聞きしたことでしたね。
  そうでしたね。

 

 神司は島の神行事の中心であり、島の伝統文化の柱となっておられる方だと思います。今回は、與那國さんから神司になられたいきさつやいままで務めてこられたお気持ちなどについて、お聞きしたいと思います。
 では、早速ですが、與那國さんが神様を拝むようになられたことについてお聞きしたいと思います。與那國さんは小さいときはどのようでしたか。

小学校高学年から中学校3年間の間、よく耳が痛くなって石垣の病院に行ったのですが、病気じゃないんですね。那覇の病院にも行ったことがあるんですよ。島にいるときはずうっと耳が痛いのですが、島から出るともう痛くない。

 そこで、そのころ神司だった石川明さんが、「これは神ごとに通じることで、この子は神の子だ」と言って。それで、たしか小学校5、6年のころにコンジンというものを立てて拝みをするようになったんです。ただ、子どもでしたので、どういう意味かよくわかりませんでしたが。

 

 原因のわからない体の不調は、神をまつる人として選ばれたという、神様からの知らせなのでしょうね。コンジンを拝むことになられたというのは、宮古島地方のマウガン(守護神)をまつるという信仰と共通するもののように思われ、とても貴重なお話だと思います。ところで、そのころの生活はどのようでしたか。

私が生まれたのは昭和23年で、終戦後のものがない時代でした。電気も水道もなくて、井戸水を使う生活でした。私は小学校5年生のときから子守に出たのですが、ナージカー(仲筋井戸)から水を運んでお年寄りの家庭や床屋さんなどに売りあるいたりもしました。床屋さんは水をたくさん使うんですね。

 月夜のよるには何十回も水を汲んで往復したこともあります。月夜は本当に明るいんです。そのころは学校の先生も島で生活しておられましたので、そこに水を運んでいってそろばんを教えてもらったこともありました。

 中学生になっても、ひとり朝早く登校して、学校のいろいろな仕事の手伝いをしていました。朝、お茶をわかした後、授業の始まりの鐘を鳴らして教室に入り、休み時間は職員室の湯飲みを洗ったりしていました。卒業した後も学校の補助員として過ごし、先生方からはとてもよくかわいがってもらったという思い出がありますね。

 

 年輩の方々にはなつかしい島の生活ですね。與那國さんは、体の不調など、つらいことも多かったのでしょうが、楽しい思い出もたくさん持っていらっしゃるのですね。それで、その後はどのようだったのですか。
  その後、島を出て暮らし、また戻ってきた23才のときのこと。たまたまモノシリの方と出会って、その人が「あなたはよく感じる(神高い)人で、子年生れでしょう。双子の1人で、もう1人があなたのことを守ってくれているので、何でもうまくゆくでしょう。あなたが島に戻されたのも、久間原御嶽の神司になる人だからですよ」という話をされたんですね。
 私も、母がこの御嶽のスンヌツカサ(袖の司=2番司)でしたから、年とったらやらなくちゃいけないと感じてはいたのですが。

 

 神高い方は、いろいろな機会に意昧づけされて、神様をまつる使命を自覚してゆかれるのですね。

それで、久間原御嶽のフンヌツカサ(本の司=1番司)は安里ヤエさんがなさった後、正式にそれを継ぐ人が出ないままでした。スンヌツカサ(袖の司=2番司)は、母の後を継いで姉がしばらく出ていましたが、あるとき周りの人々からすすめられてフンヌツカサ(本の司=1番司)の座る場所にあがって拝んだところ、神様から押さえられて・・・。それで、下りなさいということで下げられてしまって、その後16年間も神司が出ないままになっていました。

 その間、私は、久間原御嶽の神司に出るべきだと人から聞かされ、うわさも広がっていたのですが、子どもはまだ小さいし、せめてこの子どもたちが大学に入るようになったら、島のため、人のため、八重山のため、みんなのために神を司るという決心をしようという気持ちを持っていたんです。

 平成6年のある日、新田ハツさん(波利若御嶽神司)がモノシリから教えられ、私に言わなくちゃと思っているときに、神様が引き合わせたように、私も新田さんのところに髪の結い上げをお願いしに行ったんですよ。そして、ハツさんから「あんた、早くやらないとだめだよ」と言われたんです。それまで、神様にはいつも「子どもの道が開けるまで待ってください」と手を合わせてお願いしていたのですが、「あんた、もう待てないと言ってるよ」と言われて。そのときは「はい、はい」と聞いていて、神様はわかってくれるだろうと思っていたんです。

 それから何回も言われ続けたのですが、「待ってください」と祈り続けていました。平成9年はいろいろなことがあって、良くない年でした。でも、そのときはそれが神様を待たせているからだとは気づかなかったんです。本当は子年の平成8年にやらなければならないのにやらなかったために、私に苦しみが来たんです。

 それでも、そのとき私は踊りの師匠の補佐役をしていましたので、その責任もあるし、練習している踊りをこの年(平成9年)の種子取祭の最後の奉納芸能として踊らせてもらって、神様にお仕えしようと決心したんです。そして、グゥンァゲ(御恩上げ。なお、ブンァゲともいい、盆上げという意昧でも理解されている)をやるということで日を取ってもらって、9月27日に決まったんです。そうしたらその後で、子どもたちの道(進路)も開けたんですよ。

 

 ああ、それはとてもよかったわけですね。やはり、神様に思いが通じたということなんですね。ところで、そのグゥンアゲという儀式はどんなことをなさるのですか。
  それは、いままで與那國光子として生きてきたことへの感謝の礼ですね。御嶽々々の神様と井戸、それから実家や現在の家をまわって、いままでのお礼をする儀式なんです。

 

 そうすると、それは、俗人として生きてこられたことについて、神様に感謝なさるという儀礼、ということなんですね。それで、その次にはどんなことをなさったのですか。
  この後、11月10日にはカンビラキ(神開き)ということで、與那國光子は久間原御嶽の神司としてお務めしますという挨拶の儀式なんですね。御嶽々々をまわって、最後に自分の御嶽で初めて白い神衣装を着るんです。そして、実家で報告をし、また家では久間原御嶽の香炉を据えるのです。

 

 11月の10日というと、島ではポインセチアの花がきれいに咲くころですね。そのカンビラキという儀式は與那國さんが神司として新たに誕生されたという儀式だということなのですね。
  はい、そうです。

 

 そのころ、何か夢をごらんになるようなこともあったのですか。
  ええ、夢もありました。グゥンアゲをすませてそのカンビラキをする前のことです。こんな年になってね、お産を一生懸命しようとしているんですよ。分娩室に入っているのかどうかわからないんですが、子どもが生まれそうなんですよ。で、ぱっと目をさますと、夢なんですよ。
 その話を新田さんに伝えたら、産んで生まれる、つまり神司として生まれるということを見せた、っていうんです。私はあまり夢は見ないのですが、見ると正夢でよく当たるんです。身体に異常が出たりしたこともあって、やっぱりやらないといけないと悟ったんです。

 

 やはり、そのような神様からのお知らせがあるものなんですね。この夢はこんな意昧なのでしょうね。つまり、神様にお仕えすることは神様と結婚することであり、またそこで生まれる神の子が神司としての自分自身でもあるというような・・・。神に仕える女性たちは昔からこのような不思議な夢を見てきました。
 ところで、以前、お母さんもこうした特別な夢をごらんになる力を持っておられたとお聞きしましたが。
  ええ。母がよそから頼まれて実家のザーでお祈りをすると、しばらく眠らされるんですね。すると、その間に夢を見て、そしてそれで判断するんですよ。母は、私の息子が受験したときも、夢を見て、その結果をあらかじめ教えてくれました。

 

 夢で占いをなさるというのは、古典文学の世界に平安時代の貴族の女性たちが大和の国(奈良県)の長谷寺や近江の国(滋賀県)の石山寺の観音様の前にこもって霊夢を授かるという話があるのですが、そのようなことを思わせる興昧深い、これも不思議なできことですね。
 さて、そのカンビラキの儀式を終えられて、どんなお気持ちだったですか。
  そうですね。神衣装を着けたときに、なんていうんでしょうか、別に怖くはなくて。うれしい気持ちと、何か神様に迎えられたような、そんな気持ちですね。自分が自分でないような感じで・・・。

 

 こうした儀式を終えられて、神司としてお立ちになるということを私などが考えますと、不安と責任の重さがあるのかと思うのですが、そのようなことはどうなのでしょうか。
  いや、そうじゃなくてね。神様がいろんなことを教えてくれる、という気持ちだったんですね。そして、それまではたくさんの人の前で方言で挨拶することはできなかったのですが、神司になってからは方言で挨拶することもできるようになって。何か、神様の力がもらえているような気持ちですね。
 だから、不安や責任の重さというのでなく、カンビラキのときに神衣装を着けているときには、ことばでは言い表せない、迎えられているという気持ち、そして神司が生まれたということで島じゅうのみんなが喜んでくださっている、という思いだけなんですね。その大変さを感じたのはこの後からなんですよ。

 

 そうなんですか。とても興昧深いお話なのですが、続きは次の号にお願いしましょう。

 

 

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