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竹富島のマミドーについて、私は昭和五十年に調査した。その資料は、拙著『竹富島仲筋村の芸能』でも紹介しているが、文化財審議委員会の場においても、その資料を基に述べた。
そもそもマミトーマといわれる歌は、宮良永祝(みやらえいしゅく)与人(役人)の作と伝えられ、石垣島・波照間島でも伝承されている。
周知の通り、ジラバ・アヨー・ユンタと呼ばれる古謡は、同じものが各島々で歌われているが、マミトーマも例外ではない。本来は子守唄であったと伝えられているマミトーマは、『小浜島誌』も記しているように、農作業の草取り唄、すなわちユンタとしても歌われていた。
ユンタとしてのマミトーマは、当然ながら竹富島にも伝えられていたと思慮される。ユンタのマミトーマは、竹富島で舞踊のマミドーとなった。
その経緯について、私は舞踊マミドー創作者の曽孫にあたる故金城ヤスさん(当時93才)から、次のような話を聞いた。
竹富島で、マミドーといわれるこの踊りは、仲筋村の小底筑登之の創作である。筑登之は、種子取祭に相応しいようにと、歌詞と踊りを創作したが、そのときマミトーマの曲の調子も早くした。また、踊りを創作するさいには、昔、仲筋村の真栄里家にいた娘をモデルにしたが、その娘は器量もよく、マイフナファー(働き者)であった、と。
マミドーとは、「マ(真)ミドー(女)」という意味で、ご衆知のように竹富島の方言で、女性をミードーといい、接頭語の「真」は周知の通りである。例えば、たいへん良い物をマークヌ(真物)。また昔の人名にウシ(牛)という名があったが、単なる「牛」よりは、それに勝るようにと「マウシ(真牛)→モウシ」という名にしたのであった。
マミドーのモデルとなった仲筋村真栄里家の女性は、実在していたようである。その証拠に、マミドーヌカミ(真女の甕)と称された甕が代々伝えられていたという。その甕は種子物を保管するためのもので、種子取祭の狂言にも小道具として使われていたが、戦後真栄里家が那覇へ引っ越した後、行方が分からなくなったと、故生盛康安翁・故加治工政治翁などの古老たちは話していた。
私は参考人として、以上のようなことを述べた後、次のような提案をした。すなわち、小浜島のマミトーマは古謡としての無形文化財に指定し、竹富島のマミドーは歌舞としての無形文化財に指定するのが妥当ではないか、と。
その結果、両者は昭和51年12月15日、私の提案どおり、めでたく無形文化財の指定を受けたのであった。
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